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正論は時に暴力になる

こんにちは、urauraです。今回の記事は前回記事の最後の方に話をした

※とはいえ言いたいことを言うだけで満足してはいけないと思います。なぜならそれは受け取る相手のことを一切考えていない自分勝手な人になってしまいそうだからです。この話は次の記事で書きたいと思います。

についてのお話です。今回の話の元になった気付きは自分のサークル時代の経験です。そんな過去の苦い経験から学んだ気付きを書いていきたいと思います。

正論&理論詰めすることに満足していた自分

数年前の私の話です。当時学園祭を運営するサークルに所属しておりwebサイトを作る担当でした。その担当では大学3年生が最上級生なのですが、大学2年生に仕事をまとめるリーダをしてもらいます。いわば3年生はサポート役です。

ただこの時のweb製作のリーダーになった子はコーディングができるわけでもなかったので仕事がうまく回りませんでした。そこで私は何が悪いかを理論詰めで正論(自分の中では)で相手を問い詰めたりしていました(嫌なやつです)。

周りにいた同期や先輩も自分のように考える人が多く、私の意見や発言には賛同してくれていました。それで正論こそ正義みたいに考えていました。

けど何もうまくいかなかった

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しかしそれでは結局何もうまくいきませんでした。チームの雰囲気は悪くなり、仕事も進まずで何も良くなりませんでした。結局自分は仕事の成功よりも自分の正論を押し通すことにただ夢中になっていたのです。みんなのためを思って行っているようで結局は自分が満足することを真の目的としていた自分勝手な奴でした。

そこから学んだこと

サークルを引退して自分のこれまでの行動を振り返ったときにようやく気がつきました。「ああ、正論をただ伝えるだけなら誰にでもできるし相手に何も思いやりのないただの暴力だな」と。ましてや正論というのはあくまで自分目線で見たときの話であって、相手の立場からすれば相手の意見が正論で自分の意見は曲論なんだなと。正論って自分勝手だなと思って心にぐさっときました。

正論は相手のことを考えない意見になりがち

正論を伝える時、多くの人は自分目線の意見です。つまり自分が見えている事象から判断されるベストプラクティスを伝えます。一見良さそうですがここでの問題が「正論=自分が見えている事象から判断されるベストプラクティスである」ということ。つまり相手の立場から見える事象については考慮されないがちであるということです。

こうなると自分から見て正しいと思えることからしか意見を言えないので自分勝手な意見になりがちです。すると問題を解決するための意見のように聞こえて本当は自分の意見を通すことを目的とした自己中的な意見に終わってしまう可能性があります。

正論は問題をややこしくする

時には正論が的を得ていることもあります。しかし問題をややこしくする原因は「正論の伝え方」です。人は正論を言っている時に凶暴になります。雰囲気としては「自分の意見は正しいのだから必ず押し通す!何がなんでも!」という感じです。

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それによって客観的事実を伝えるだけで済む言葉を相手をねじ伏せるためのとげを持った言葉に加工されて発信されるようになります。こうなると言われた相手も黙ってはいません。

「なんでそんな風に言われないといけないんだよ」と思うこともあるでしょう。そうするとお互い張り合い始めるので問題を解決するよりも「自分の意見はいかに的を得ているのか」を証明することに夢中になります。

こうして問題は解決するどころかややこしくなっていくのです。

だから正論は自分勝手で暴力になりがち

以上のように正論は相手の立場も考えず刺を持って勢いそのまま発信されてしまうことが多いような気がしています。それにより正論は自分勝手で暴力な意見で終わってしまい、ほぼデメリットしか生まないと私は思います。

ここまでは今の自分でも考えられていることです。問題は「自分が正論だと思っていることをどれだけ発信して良いものか」ということです。相手の立場になって考えてお互いの意見に近いところに持っていけるのがベストですが、なかなかうまくいきません。

そうした時にどれほど自分が正しいと考える意見を伝えて良いのか、(もちろん自分お意見がいつも正しいと思わないことは重要だと思いますが)そこの力加減が難しいなと悩んでいます。

「違う違う、そうじゃ、そうじゃない(鈴木雅之風に)と思いつつも意見を発信できないのが現状です。(ただこれを言いたかっただけで相手をここまで全否定していませんw)

この問題は相手との関係で「この人なら伝えても向き合ってくれる」と思えるような信頼関係を結んだりすればできるのでしょうか?

一体どうすれば伝えられるようになるのか、そもそも正論に近い意見は伝えるべきタイミングなどないのか、もしくはそんなベストプラクティス的なものはコミュニケーションに存在しないのか、何かしらのデメリットを背負ってそれをいかにカバーしたり修復したりすることがコミュニケーションには求められているのか。

答えはまだ出ません(と言うか生きている間一生向き合っていく気もしますが)。皆さんならどうしますか?

とりあえず私は「自分の意見に無駄な刺を付け足さないように意見できるよう意識していくことからかな?」と考えています

もし良い考えがありましたら是非コメントに書き込んでいただけると嬉しいです。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

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