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『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』の好きなとこ

日比谷公園の噴水が
春の空気に虹をかけ
「神は細部に宿る」って
君は遠くにいる僕に言う 僕は泣く
アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)/小沢健二

こちら、映画「リバーズ・エッジ」の主題歌である『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』の一節です。

メロディという意味でもリリックという意味でも、この曲のどのフレーズもすごく好きなのですが、特にこの一節がなぜだかとても好きなんです。

この一節が持つ”魔法”を、私が感じたなりに書きたいと思います。


”音"と"言葉"の魔法


この一節は曲中にて、映画にて主人公:若草ハルナを演じた二階堂ふみさんが担当されています。

聞こえてくるのは語りかけるような、祈るような、どことなく温もりを感じる声です。

またそれは、歌を”歌う"のとは少し違うような、ラップというには柔らかく、でもただ読み上げるでもない、不思議な響きと手触りのある言葉のように感じられます。


そして言葉と共に流れるメロディ、鳴り続けるアルペジオは、まるで曲中で述べられる川のようです。


最初に温もりと書きましたが、ふみさんが発した言葉には、同時に浮遊感や郷愁に似た切なさを感じます。


それは、言葉が川の流れに身を任せてどこかへ運ばれていく様に、言葉やメロディの中に、どこまでも流れていく”自由さ”と、流れに抗えない”不自由さ”という、相反する2つが溶け合っているからなのかもしれません。


音と言葉が織りなす魔法のように感じます。


この部分に限らず、山田一郎を演じた吉沢亮さんが担当されている部分も大好きなので、ぜひ聞いていただきたいです。

”歌詩”の魔法 -前半-


小沢健二さんの”歌詞”は”詩”のようである、というような言説を何度か耳にしたことがあります。

自分も共感し、言葉が連なった”詩”としての魅力を持つと思います。
ですが自分は、前項で述べたように、メロディも含めてこのフレーズが好きなので、ここではあえて”歌詞”と表記しようと思います。



それでは見ていきます。

日比谷公園の噴水が
春の空気に虹をかけ
「神は細部に宿る」って
君は遠くにいる僕に言う 僕は泣く

フレーズの始まりは”日比谷公園”という場所、そしてその中にある”噴水”。

日比谷公園は、皇居のそばにある大きな噴水のある公園ですね。



曲中では他に、駒場図書館や原宿といった固有名詞が出てきますが、聞く人が思い浮かべるのは、必ずしも正確にその地である必要はないと思います。

調べものに訪れる図書館、多様な人が集まる近くの街など、聞く人が知る似た場所に想いを馳せることで、歌詞を聞く人なりに彩ることができると思っています。



少し脱線しましたが、ここでは噴水があるような比較的大きな公園が思い浮かびます。

噴水の周りにはさまざまな人が憩い、各々がそれぞれの時間を過ごしている、そんな様子でしょうか。


そこから

日比谷公園の噴水が
春の空気に虹をかけ
「神は細部に宿る」って
君は遠くにいる僕に言う 僕は泣く

この一文で、周りの様子を含む噴水から、噴水から湧き出ている水へと焦点が移ります。


晴れた日にホースの水を光にかざすと小さな虹ができますよね。
そのようなことを、誰しも一度はしたことがあるんじゃないでしょうか。

ここでは春という季節が登場し、春の少し乾燥した暖かい空気の中に、噴水の水が虹をかけているようです。


水を流れ、”春の空気”という空間を通り、虹が描かれる。


一度、繋げて見てみましょう。

日比谷公園の噴水が
春の空気に虹をかけ

私はここまでのたった2行の情景描写がとても好きで、ため息が出てしまうのです。



人が憩うような穏やかな公園にオブジェとしての噴水という広い遠景から、噴水から流れ出る水と空間、そしてその先に小さくかかる虹へと、段々と映像の焦点が定まってくる。



この一節は曲の終盤に流れるのですが、まるで映画のエンドクレジットのような光景が、ありありと浮かんできます。

たった2行の文章で自然な映像の流れを伝えられることに感嘆すると共に、まるで魔法のように感じられるのです。


”歌詩”の魔法 -後半-


そして虹に焦点を当てたまま、次のように繋がります。

日比谷公園の噴水が
春の空気に虹をかけ
「神は細部に宿る」って
君は遠くにいる僕に言う 僕は泣く

どこからか声が聞こえてきます。


”神は細部に宿る”
これは誰が最初に言った言葉なのでしょうか、遠い昔から伝わる言葉のように思います。
何かを作るときや行うとき、また形容するときに用いられますね。


そして曲における現在、声の主は、いま映し出されている噴水にかかるこの虹のことを言っているのか、曲中で出てくる”君”が描く絵に触れて言っているのか、それとも普遍的なことを諭しているのでしょうか。


言葉の意図はわからないですが、映像に合った言葉が響いてくる様子は神秘的に感じます。


日比谷公園の噴水が
春の空気に虹をかけ
「神は細部に宿る」って
君は遠くにいる僕に言う 僕は泣く

そしてここでようやく風景描写から、”君"と"僕"という登場人物が描かれて、この一節は幕を閉じます。


声の主は遠くにいる君でした。


虹から君へと映像が映されたかと思うと、君がいるところからまた距離をとり、僕が映されます。
そして最後は僕が涙を流して、次の一節へと切り替わっていく。

この短い文章の間に何度も映像が切り替わっているのに、破綻するどころか瑞々しく美しい様子が描かれていると思います。
それを可能とする言葉選びと運び方にはもう脱帽です。


改めて見てみましょう。

「神は細部に宿る」って
君は遠くにいる僕に言う 僕は泣く


この「遠くにいる」という言葉は、距離的な遠さに加えて、時間的な遠さとして解釈することも可能だと思っています。


距離的に解釈すれば、「神は細部に宿る」と君が言った時には、今まで描かれた風景の中にいる君を、僕は少し離れた場所から見つめている。
そしてその様子に涙を流す僕、というような美しい場面のように考えることができます。


一方で時間的に解釈すれば、一連の様子と君が言葉を放った時はいつかの過去のことであり、遠い思い出の一つである。
そしてそのことをいま思い出しながら、思い出から語りかける君の言葉に涙を流す、そんなようにも解釈が可能だと思います。


最後に


いかがでしたでしょうか。

自分の感じた”魔法”、そしてそれに対する”愛”を書いたつもりでしたが、伝わったでしょうか。
勢いで書いたところもあるので、また読み返して修正すべきところなどは修正しようと思っています。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

自分が好きで聞くたびに感じていたことを、ただただ書き連ねただけなのですが、ここまで辿り着いた方がいらっしゃれば驚きと共に光栄です。

個人の解釈ですので、聞く方読む方それぞれに思うところがあると思いますが、一つ個人の感想として楽しんでいただけたらと思います。


ではまた、ご縁があれば。

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