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“人生をかけて闘うアスリートの裏側”スポーツ選手としての「生き様」に迫る!     【松本孝平選手編!】

みなさん、こんにちは!
スポーツ選手の人生を応援するスマホアプリ「UPSTAR」運営の柴田です!人生をかけて日々闘っている選手をスポットライトを当て、「アスリートとしての生き様」に迫るインタビュー記事を投稿していきます!

今回インタビューしたのは…

松本孝平選手です!一度サッカーを引退されたり、度重なる怪我があったり、何度も移籍を経験したり…。波乱万丈のサッカー人生を歩まれている松本選手だからこそたどり着いた「考え方」とは?松本選手のアスリートとしての「生き様」に迫りました!

松本孝平選手(写真左)

松本孝平選手の人生応援プラン!? 選手の“人生”を応援するアプリ「UPSTAR」に関するお知らせ

松本選手の人生に迫る前に、お知らせです!
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それでは、松本選手の「人生」に迫っていきましょう!


野球よりサッカーを選んだ少年時代

柴田|
サッカーはいつから始められたんですか?

松本選手|
小学1年生の時に地元のクラブで始めました!最初は、父が草野球をやっていたこともあって野球で遊ぶことが多かったんです。でも、2人で野球するってなったらキャッチボールか素振りくらいしかなくて、全然面白く無かったんです(笑)。そう感じ始めた頃、たまたま小学校の近くを通った時に同じ年くらいの子がサッカーをしていて、「サッカーの方が楽しそうだな〜」と思ってしまって(笑)。それで、小学校の友達と始めました!

柴田|
はじめに野球に触れたのにサッカーに移るっていうのはなかなか珍しいですね!小学生の頃はどんな少年だったんですか??

松本選手|
性格はとにかく「負けず嫌い」でした!試合で負けたら必ず泣いてましたし、練習で上手くいかなくても泣いてましたし…。そんな負けず嫌いの性格もあって、学校が終わったらすぐサッカーの練習をして、少年団の練習が無い日でもサッカーしていました!

柴田|
すでに意識高いですね!その頃から四六時中ボールを蹴って感じだったんですね!
当時はプロサッカーの試合を見ることもあったんですか?

松本選手|
ゼロではなかったと思いますが、どちらかというとプレーする方が好きでした!印象に唯一残っているのは、2002年の日韓ワールドカップくらいですね!

柴田|
なるほど!!当時好きな選手とかはいらっしゃったんですか?

松本選手|
当時は稲本潤一選手が好きでした!

柴田|
おー、2002年のワールドカップでも活躍されていた選手ですね!松本選手のポジションは当時からフォワードだったんですか?

松本選手|
いや、小学生の時は色々なポジションをやっていました!一番最初はサイドバックで、3、4年生でフォワード、5、6年生はボランチでした。そこから中学生に上がってボランチをやって、高校2年生では体が大きくて空中戦が得意だったのでセンターバックをやって、高校3年生でフォワードを任されました!

柴田|
学生時代は相当多くのポジションをやっていたんですね!
高校当時、リーグのカテゴリーはどこだったんですか??

松本選手|
KSリーグ(神奈川スーパーリーグ)、今でいうK1リーグです!僕たちの代ではリーグで優勝して、プリンスリーグ昇格戦で國學院久我山に1-6で負けてしました。

怪我をしていても“サッカーに触れていたい”

柴田|
一旦中学生時代に話を戻しますが、地元の中学校に進学してサッカーをされていたんですか?

松本選手|
実は、小学6年生の時に股関節の怪我をしてしまい、手術をして約2年間サッカーができなかったんです。小学生の時点で横浜F・マリノスJr.ユースからも話はあったんですが、怪我をしてしまったのでセレクションに行っても見学することしかできませんでした。それで、地元の中学のサッカー部に入ることになりました。

柴田|
そうだったんですね…。サッカー部は怪我の期間も入られてたんですか?

松本選手|
そうですね。でも、部活中はずっとベンチに座って見ているか、負荷の低い野球ボールやテニスボールでリフティングをしてました。

柴田|
怪我だとそういったこと以外難しいですよね。当時は、プレーをしている同世代を見て、「悔しさ」とか「羨ましいな」みたい感情はあったんですか??

松本選手|
正直あまり覚えてないですけど、そういうのもあったと思います。
今振り返ると、当時はよく部活にちゃんと行ってたなと思います。何もできないし、正直そこまで強いチームではなかったし、顧問の先生がきちんと見ているわけでもないし…。本当にただグラウンドのベンチに座って練習や試合を見てるだけか、ボール拾いをするかしかすることがなかったので、どうして続けることができたのか、自分でもよくわからないです。
ただ、もしかしたら潜在的に「サッカーと自分の距離を遠ざけたくない」っていう気持ちはあったのかもしれません。

柴田|
そうなんですね…。でも、そういった状況でもきちんと練習に参加されるのは、松本選手の真面目さというか、サッカーに対する愚直さを表している部分ではあるかなと思います。
怪我をなんとか乗り越えて中学2年の夏に復帰されたと思うんですけど、久しぶりにボールを蹴った時はいかがでしたか??

松本選手|
チームの仲間からは、「やっとサッカーできるな!」っていう感じで迎えられてましたね!なぜかわからないんですけど、僕の怪我が治るまで10番を空けていてくれてたみたいなんです!顧問の先生が、僕に10番をつけてもらいたい意志があったそうで…。

柴田|
素敵なエピソードですね!それもあって乗り越えられたっていう部分もあったんですか??

松本選手|
それももちろんあったと思いますが、一番は小学生の頃からの友達がみんなサッカー部に入っていたので、彼らとまたプレーをするんだっていう気持ちが大きかったと思います!小学校の時には一応県のトレセンとかも入ってたので、その頃からの仲間には「早く治るといいな!」って声をかけてもらっていたので!

柴田|
小学校で県のトレセンって相当凄いですよね!それは横浜F・マリノスからも声がかかりますね!

松本選手|
いや〜、そこで横浜F・マリノスに行っていたらどうなっていたのかも興味はありますね。同い年には喜田拓也選手などがいたので。

愚直な努力を続けた高校時代

柴田|
中学校最後の大会は10番で出場されたんですか?

松本選手|
そうですね!最後は10番で地区大会に出て、茅ケ崎第一中学校に負けてしまって、中学校サッカーは幕を閉じました。

柴田|
そこで中学校サッカーは引退されて、高校進学にむけた受験勉強が始まるんですか?

松本選手|
そうですね!最初は姉が通っていた藤沢西高校を志望していたんですが、藤沢清流高校から「いつでも練習来ていいよ!」って言われて、ほぼ毎日部員みたいに通ってました!サッカーのレベルも高まっていて、下田北斗選手もいて関東大会の予選でも優勝していたので、「僕もこの環境でサッカーがしたい」と思い、そのまま藤沢清流高校へ進学しました!

柴田|
なるほど!ということは、結構松本選手自身のことも知られている状態で藤沢清流高校に入学されたんですね!入学当初はどんな感じだったんですか?

松本選手|
中学時代から通ってはいても、やっぱり最初は1年生なので一番下のカテゴリーでしたね(笑)。でも、そこからコツコツ努力はして、2年生でベンチに入るか入らないかのレベルまで上げ、3年生の時にはスタメンで出場できるようになりました!

柴田|
着実にステップアップされていたんですね!そのまま最後の試合までスタメンだったんですか?

松本選手|
一度リーグ戦の時に足首の靱帯を損傷してしてしまって、そこから2ヶ月くらいは休むことになってしまったんです。その間にもリーグ戦は続いて、リーグ最後の試合の頃にはやっと出場はできたんですけど、ほぼ時間稼ぎ要員としての役割でした。チームは勝ちながらも、自分としては悔しくて泣いてました。結局最後はプリンス昇格戦で國學院久我山に1-6で負けて、高校サッカーは終わりました。

柴田|
高校生になっても「負けず嫌い」の性格は一貫してますね!

松本選手|
はい(笑)。ただ、最後の試合を終えた時は、悔しい気持ちよりも、「全国レベルはやっぱり凄い!」っていう不思議な感覚でした!そこまで上り詰めたからこそ味わえる感覚なんだろうと今では思います!

一度は引退するも、再び上を目指す中で見えた「プロの世界」

柴田|
大学入学と同時に一度サッカーから離れたんですか?

松本選手|
一応東海大学から推薦は来てたんですが、全寮制で、そんなに裕福ではなかったのもあってお断りしました。それで、自分たちでサッカーチームを作って社会人でやっていましたね!

柴田|
そうだったんですね!ちなみに国士館大学に進学された決め手はあったんですか?

松本選手|
最初は、姉が薬学部だったのもあって薬学部に入ろうとしたんですが、途中から自分に合わないことに気づいて消防士になろうと決めたんです!
そこで「消防士になれて、かつ自分の得意分野の入試がある大学学部」を探した結果、国士館大学にあったので、そこに進学しようと思いました!
ただ、消防士になりたいと思って入ったのに、実はその学部は消防士ではなく救命士になるための学部だってことに入学後気づいて…。

柴田|
違かったんですね…。

松本選手|
はい。ただ、もちろん消防士になれないわけではないので、体づくりのためにもサッカーはやろうと思ってました!で、最初は社会人チームでやっていたんですが、さすがにレベルの差がありすぎて面白くなくって…。
「もっと高いレベルでやりたい!」と思うようになって、サッカー部へ入りました!

柴田|
そうだったんですね!いつ頃から試合に出るようになったんですか?

松本選手|
まず、大学2年生の時に4年生が引退したタイミングでBチームへ上がりました!そして、その年にIリーグでも優勝して大会MVPを取って、2年生最後のリーグ戦が終わったタイミングでAチームに昇格し、華々しく関東大学サッカー大会でデビューをしました!交代2分でイエローもらってそもまま交代してしまったんですが…。

国士舘大学サッカー部時代の松本選手

柴田|
メキメキ成長されていたんですね!でも、その間大学の勉強も並行して行なってたんですよね??

松本選手|
そうですね!かなり忙しかったです!毎週レポート書いてって感じで!

柴田|
なるほど、そこは他の大学生と同じな分、ハードな生活になりますよね。でも、充実した学生生活ですね!

松本選手
はい!ただ、大学3年になった時に、開幕1週間前にスタメン出場と告げられてたんですが、元サッカー部の監督だった当時の大学理事長がたまたま部内試合を見に来た時に調子が悪くて、その方に「お前はもう一度Bチームからやり直せ!」と言われてBチームへ降格しました。

柴田|
え!?そんないきなりですか??その後どうなったんですか?

松本選手|
毎週末行われるチーム内の紅白戦には出れたんですけど、練習は基本Bチームに戻って練習することになって、僕の中ではすごく苦しかったです。ちょうど国家試験と公務試験も重なっていましたし…。

柴田|
苦しいことが重なってしまたんですね。

松本選手|
そこでたくさん悩んだ末、「勉強に集中する」ことに決めて、そのことをコーチに伝えたんです。そしたら、「待ってくれ、夏までは続けてくれ!そこで見えた景色でお前が納得がいなかいなら勉強にシフトしていい」って言われて…。泣きながら「はい、わかりました」って返して、そこから少なくとも夏までの3ヶ月間は続けることにしました。

柴田|
まさに葛藤の時期ですね…。

松本選手|
そこから翌週Aチームに戻って約束の3ヶ月間は必死にプレーしたんです。そしたら、得点ランク2位になって!!それで、サッカーを続けることを決意しました!そこからトントン拍子で大学選抜にも呼ばれて、日韓定期戦にもメンバーに入りました!同じ年の大学3年次に名古屋グランパスの方を紹介していただき、プロへの道が見えるようになりました!

柴田|
コーチの「夏まではやってくれ!」っていう言葉がなかったら松本選手はサッカーを続けてないって考えると、運命って不思議だなって思います!では、その頃からプロを意識するようになったんですか??

松本選手|
そうですね!ただ、その当時はまだ「なれたらいいな〜」くらいにしか思ってなかったと思います!しかし、大学4年になってから、チームとしても勝てないし、僕も点が取れないという時期が続いて…。プロからの話はありながら結果が出なかった時は、「どうにかしないと!」っていう気持ちが強かったです。実は、そこで無理をしすぎて脛の骨折をしてしまったんです。

柴田|
なるほど、その時期だったんですね…。でもそんな中でも最終的にはプロへの道を勝ち取ったんですもんね!

松本選手|
そうなりますね!でも、僕の力だけではなく、色んな方の支えであって、良い機会にも恵まれたうえでのことだと思います!

度重なる怪我を乗り越え、たどり着いた「新たな考え方」

柴田|
プロとしてはどんなスタートを切られるんですか??

松本選手|
僕の1年目はちょうど名古屋グランパスがJ2に落ちて監督も変わった時だったので、思っていたのと真逆のサッカーをしてました。しかも、入団時は怪我で入団会見も松葉杖で出てましたね。「新人なのに怪我人」みたいな…。

名古屋グランパス入団会見の様子(写真:1番右)

柴田|
入団時と重なってしまってたんですね。いつ頃復帰されたんですか?

松本選手|
約1年くらいリハビリ期間があって、検査結果がよくてやっと復帰したら、練習に合流したそばからシュート練習で次はアキレス腱の断裂してしまいました。

柴田|
間髪入れずにまた怪我してしまったんですね…。

松本選手|
はい。「やっと明日からプロとしての道を踏み出せる」っていう時に怪我をしました。そしてまたそこから半年間はリハビリ生活が続きました。

柴田|
もどかしい時間が続いたんですね…。怪我期間の生活はどんな心境だったんですか?

松本選手|
脛の怪我は、元々無理をしてやってしまったので「どうしようもない」って思ってました。でも、アキレス腱の時は結構ショックで、ずっと落ち込んでました。だけど、人って落ち込みすぎると「もう上に上がるしかない」って思えるんですよね!そこから「今できることは1日でも早くピッチに戻ること」っていうマインドに切り替えました!

柴田|
すごくポジティブというか、前向きですね!そのあと、レンタルでSC相模原に行かれるんですよね?

松本選手|
そうですね!復帰しても名古屋グランパスではフォワードが空いてなくて埋め合わせでの練習だったので、もう可能性がないと思ったんです。そこでSC相模原から声をかけてもらいました!SC相模原でのシーズンは、13試合に出場して、当時は川口能活選手や成岡翔選手などJ1で活躍していた選手が数多くいたので、凄くいい刺激になりました!

SC相模原時代の松本選手

柴田|
怪我の期間もあって、実践のプレーができる喜びもあってのことですよね!その後はFCマルヤス岡崎に移られるんですよね?

松本選手|
そうですね!2年間在籍したんですけど、1年目は2点しかとれなかったんです…。「もうこのままじゃダメだ」と思って、そこから食事を変えたりいろいろ工夫しました。意識の向上という意味では、そこはターニングポイントだったかもしれないですね!でも、そこではなかなか起用はされなかったです。

FCマルヤス岡崎時代の松本選手

柴田|
なるほど…。

松本選手|
その後は、FCティアモ枚方に進むことに決めました!FCティアモ枚方の巻祐樹さんが大学3年生のときからずっと気にかけてくれていたのもあったので!入ったときにはすでにいなかったんですけどね。

柴田|
FCティアモ枚方での生活はどうしたか?

松本選手|
それまでは、「どうチームのためになるのか」「チームが勝つにはどうすればいいのか」が自分の中で軸になっていたんです。でもそれはチームとしてはいいんですが、個人の成長には繋がりにくいことに気づいたんです!そこからは、「自分はどのように点を取るのか」「個人としてどう結果を出すのか」を考えるようにシフトしました!その結果、そのシーズンでは12得点取れるほどの成長を遂げました!

柴田|
すごい!意識を変えるだけで、そこまで結果も大きく変わるんですね!

松本選手|
FCティアモ枚方での1年間は、本当に自分自身のベクトルの向け方、目標意識について本気で考えましたし、仕事とサッカーを両立する中で短い時間の中でのパフォーマンスの上げ方っていうのも身につけることができました!

FCティアモ枚方時代の松本選手

柴田|
いろんなことを経験したからこそたどり着いた考え方や調整方法なんですね!その後は、カマタマーレ讃岐に移籍されるんですよね?

松本選手|
そうですね!カマタマーレ讃岐に移籍はしたんですが、そこでの1年間はFCティアモ枚方での1年の延長線上でしたね!「結果で返したい」っていう1年で、目的意識を変えずにやれたと思います!チームの成績は芳しくなかったですが、個人としては得点という形で結果を出せたと思います!そして、その後ヴァンフォーレ甲府からお話いただきました!

カマタマーレ讃岐時代の松本選手

柴田|
そうだったんですね!ヴァンフォーレ甲府に在籍されていた時にはACL(アジアチャンピオンズリーグ)にも出場されたんですよね??

松本選手|
そうですね!3試合くらい途中出場も含めて出させてもらって、やっぱJFLからACLへ行けた嬉しさはありました!でも、やっぱりそこまで行けたのも「意識の転換」が大きかったと思っていて。J2になると「個々の能力」っていうのがすごい大事で、各々が個性も持っていて、みんないかにそれを出すかを考えてやっているなと思いました!自分もそこについては真摯に向き合っていかないといけないなとすごく痛感しました!

「人」に恵まれ、支えられているアスリート人生

柴田|
現在カターレ富山に所属されてるんですよね?

松本選手|
そうですね!あまりうまくいっていなかった中で、ちょうどその頃カターレ富山の監督さんからもお話をいただいていたので、「もう一度チャレンジし直そう!」と思って移籍を決意しました!

柴田|
なるほど!松本選手のお話を聞いていると、やっぱり「人との出会い、繋がり」を大切にされているなと感じます!でも、それは松本選手自身にも周囲を惹きつける何かがあるのではないかと思っているんですけど、そこについては松本さん自身、どのように考えていますか??

松本選手|
でも、本当に「人」に恵まれていると思います。周囲を惹きつけられているつもりはないんですけど、居る場所居る場所で一生懸命「恩」を返すために求められていることを全力でやることが、人とのご縁につながっているのかなとは思います!

柴田|
なるほど、そういうことですね!「人」ということでいうと、応援してくれる方やサポーターは松本選手にとってどんな存在でしょうか??

松本選手|
「選手たちの後押しとなる存在」ですね!やっぱりスタジアムで自分のユニフォームとか応援グッズが目に入ると嬉しいですし、中にはアウェイまで応援しにきてくれるサポーターもいるので!勝ったら一緒に喜んで、負けたら「次頑張ろう」と声をかけてくれて、本当に選手と応援してくれる人たちと一緒に戦ってくれている感じですね!やっぱりそういったファン・サポーターへは恩返しできるように頑張りたいですし、みんなを笑顔にできたらなと思います!

選手の“人生”を応援するアプリ「UPSTAR」に関するお知らせ

柴田|
いかがでしたでしょうか!?今回は人生をかけて日々闘っている選手にインタビューをさせていただきました!

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