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“人生をかけて闘うアスリートの裏側”スポーツ選手としての「生き様」に迫る!     【阪本将基選手編!】

みなさん、こんにちは!
スポーツ選手の”人生”を応援するスマホアプリ「UPSTAR」メンバーの柴田です!人生をかけて日々闘っている選手にスポットライトを当て、「アスリートとしての生き様」に迫るインタビュー記事を投稿していきます!

今回インタビューしたのは…

阪本将基選手です!現在28歳。なんと、セレッソJrユースからトップチームまで上り詰め、柿谷曜一朗選手や山口蛍選手とともにピッチで躍動!現在は宮崎県延岡市を本拠地とする社会人サッカークラブFC延岡AGATAに所属しています!そんな阪本選手に、幼少期から現在に至るまでの過程、成功までの道のり、そして葛藤まで、余すことなくお聞きしました!

(左)阪本将基選手

阪本将基選手の人生応援プラン!? 選手の“人生”を応援するアプリ「UPSTAR」に関するお知らせ

阪本選手の人生に迫る前に、お知らせです!
現在、私たちは「UPSTAR(アップスター)」という現役スポーツ選手(プロからアマチュアまで)とファン・サポーターを繋げるファンコミュニティスマホアプリを開発しております!選手からのメッセージを通じて、試合のプレーだけではない「選手の裏側や魅力」を知り、その選手の「人生」をより深く応援することができるスマホアプリです!

そして、2024年9月のリリースに向けて、開発資金の調達をすべくクラウドファンディングを実施(〜2024/8/31)しております!

なんと、リターンの中には、【限定1枠!若かりし阪本選手のたくさんの経験が詰まったスパイク!阪本将基選手の人生応援プラン】をご用意しており、阪本将基選手の「セレッソ大阪時代に着用したスパイク」を1枠限定で提供いたします!

阪本将基選手の「セレッソ大阪時代に着用したスパイク」

👇クラファンページでは、UPSTARについての詳細、そしてなぜ我々がこの事業を立ち上げたのか、サービスに込めた想いを余すところなく掲載しております!

それでは、阪本選手の「人生」に迫っていきましょう!


鬼ごっこをしていたら、いつのまにかサッカーの魅力に引き込まれていた!?

柴田|
早速なのですが、幼少期はどんな少年だったんですか??

阪本選手|
兵庫県の明石市に3人兄弟の末っ子として生まれました!兄は野球、姉は勉強、みたいに兄弟それぞれがフィールドをもっていて、僕はそれが小学1年生の時に始めたサッカーでした!

柴田|
3人それぞれ違うんですね!サッカーを始めたきっかけは何だったんですか?

阪本選手|
5、6歳の時、兄や姉の影響もあって「小学生になる前に好きなことを見つけなさい」と言われていたんです。ちょうどその頃たまたま友達のマンションにあったチラシを見て体験に参加したのがきっかけで、そこから隣町のチームに所属し始めました!でも実は、最初は嫌だったんです(笑)。当時は人見知りで、知らない人がいるところにはあまり行きたくなかったんです!
ただ、練習メニューに「鬼ごっこ」があって、むしろそっちが楽しくて行くようになりました!

柴田|
え、鬼ごっこですか(笑)。珍しいハマり方ですね!でも、そこからサッカー自体にものめり込んでいったんですよね??

阪本選手|
そうですね!小学2、3年のときから、実際の試合を多く経験するようになったんです!試合経験を重ねていくなかで、サッカーの楽しさを心から感じられるようになって、気がついたら好きになっていましたね!
ただ、実は僕、そのくらいのタイミングで、県のトレセンに落ちてしまったんです。所属していたチームは県で上位に入るチームだったのでレベルの高かった友達はみんな受かったんですけど、僕はダメで…。小学4、5年生にして初めて「挫折」を経験したのもこの頃でした。

阪本選手の小学生時代(写真:左)

夜中にふと舞い降りた"直感"と湧いた"覚悟"

柴田|
なるほど、小学生の時の県トレセン落ちが初めての挫折だったんですね。
そこから中学はセレッソ大阪Jr.ユース(U-15)に入団されましたよね!?そこにはどんな背景があったんでしょうか?

阪本選手|
そうですね!中学に上がるタイミングでセレッソ大阪Jr.ユースに入団しました!
当時、周りの同級生は既にJr.ユースが決まっていて、同級生の他の選手はセレッソ大阪Jr.ユースにスカウトされいたんですけど、自分はスカウトされなくて…。なので、僕はセレクションを受けに行くことにしました。このときは、「Jリーグのチームに行けなければもうサッカー辞めよう」くらいに思ってました。

柴田|
そこまで覚悟を決められてたんですか??

阪本選手|
そうですね。やっぱり高みを目指したいと思ってたので、その時点で自分がどのくらいのレベルなのかというのはシビアに判断したいと思ってました。そして、Jrユースである「ヴィッセル神戸」「ガンバ大阪」「セレッソ大阪」を受けました。ガンバは3次まで進んで、ヴィッセル・セレッソは最終セレクションまで行きました。でも、その運命の最終試験がなんと、ヴィッセル神戸もセレッソ大阪も同じ日だったんです(笑)。

柴田|
え、そんなことあるんですか??

阪本選手|
そうなんですよ。どちらを受けるかはかなり悩みました。ただ、住んでいた明石市から近いこともあったので、僕は「ヴィッセル神戸を受けよう」と決めて、両親にもそれを伝えて背中を押してもらっていました。
ただ、ある日の夜、実家の2階で寝てた時に急に何かが舞い降りてきて、
「いや、やっぱりセレッソ大阪を受けよう」
となぜか意思が変わったんです!そこから「セレッソ大阪」の最終試験を受けることに急遽切り替え、セレクションに挑みました!

柴田|
不思議な出来事ですね!でも、そういった「直感」も阪本選手は大事にされてるんですね!

阪本選手|
そうですね!結果的に、セレッソ大阪のセレクションでは、試合に出た15分の間で3点を取って試合に勝ちました!その日のうちに最終に進む人として呼ばれて、三者面談でセレッソ大阪に来てくださいと言われました!
ヴィッセル神戸にお断りの連絡を入れた時に「別日で調整するから来てください」って言われたんですけど、セレッソ大阪との縁も感じていたのでそちらはお断りさせていただき、セレッソ大阪Jr.ユースへの入団を決意しました!

柴田|
やっぱり夜に降ってきた「直感」に何かがあったんでしょうね(笑)。ただその直感に従った結果、Jr.ユース入りを決めたって本当に凄いことだと思います!

阪本選手|
本当に直感で意思決定をしました!今振り返るとあの夜のことは不思議に感じますが(笑)。ただ、Jr.ユースに入る時の"覚悟"は並々ならぬものがあったと思います!チーム入ってから好きな背番号を自分で選ぶんですけど、僕はその時、自然とエース番号である10番を選びました!やはり10番は人気な背番号ということもあって数人で競り合いになったんですけど「ほんまに着たい!」と主張して譲ってもらいました(笑)。そのくらい気持ちは強く持っていたと思います!

セレッソ大阪U-15時代10番の阪本選手(写真:中央)

"覚悟"を決め、狭き門に挑む

柴田|
セレッソ大阪Jr.ユースに入った頃からプロは目指していたんですか??

阪本選手|
正直あまり意識はしていませんでしたね。小学生の時同じチームだった仲間から3人が入団したんですけど、その3人はスカウトでの入団だったんです。自分はセレクションで入団したので、「その3人だけには絶対に負けたくない」っていう思いは常に持っていて必死でした!中学の時は、最終的に全国には行けなかったんですけど、プロのクラブとして監督・コーチ陣から沢山のものを吸収することができました!厳しかったですけど、素晴らしい恩師にも出会えて、自分自身の大きな成長を感じたかけがえのない時間でしたね!全員がユースに上がりたいので、ピッチ外では仲良しなんですけど、ピッチ内ではプレーのことになると喧嘩もあったし、お互いバチバチに闘ってました。そういった環境によって、プロクラブのJrユースとして私生活意識も格段に高まったと思います!

柴田|
そういった環境の中に身を置くことで、徐々にプロとしての意識が芽生えていったんですね!高校はそのままユースに昇格するんですよね??

阪本選手|
そうですね!Jrユースからは3人だけがユースに昇格するんですが、僕はその3人のうちの1人としてユース昇格をつかみ取りました!実はこのユース昇格にも裏話があって…。

柴田|
聞きたいです!!

阪本選手|
Jrユース時代は、途中まで高校の選択肢は持たず、ユース昇格を目指していました。でも、中学3年生の頃から参加させてもらっていたユースの練習が、ものすごくきつくて…。家からユースの練習会場が遠くて、2時間かけて練習に向かっても到着した頃には練習が終わっていて、そこから走らされていて…。あまりにしんどくて、一時期「歯医者があって〜」とか言ってちょっとサボっていた時期もありました(笑)。

柴田|
それは辛いですね…。

阪本選手|
そういった日々を送っていたら、高校1年生になる直前の1月のフランス遠征(新1年生〜高3までの選抜メンバー)に選ばれず、背番号も44番を渡されてしまったんです(全学年合わせて1〜45番まで)。
その時、父に
「セレッソ大阪で3年間出場できずに終わっていいの?」
って言われて…。「3年間ベンチでも闘う覚悟があるのか?」と自問自答し悩んだ結果、僕はセレッソに行かないという判断をしたんです。姉が通っていた滝川第二高校に行こうと思って、学校に願書を貰いに行きました。

柴田|
えっ?滝川第二高校に行く可能性があったんですか?

阪本選手|
はい。でも、学校に行った時、先生から
「セレッソ大阪のユースに行けるのに、他の高校に行く奴が居るか!もう一回良く考えろ!」
って怒られたんです。正直ものすごく悩んだんですが、「行くからにはやるしかない」と"覚悟"を決めて、セレッソ大阪のユースに進むことを決めました!

柴田|
なるほど!でも、阪本選手はポイントポイントで、直感に従ったり、周囲の声に素直になったりすることで、大きな決断をご自身で下していて、本当に素晴らしいなと思います!

高2で二種登録!天皇杯で2ゴールの躍動へ

柴田|
そこからのユースでの生活はいかがでしたか??

阪本選手|
高校1年生の夏頃から、高校3年生の練習にも少しずつ入れてもらえるようになって、1年生の最後の頃にはスタメンとして1、2試合出していただけるようなレベルまで行くことができました!そして、2014年(当時高2)に、トップチームの怪我人が少し多かったことも重なって二種登録(Jリーグクラブの日本サッカー協会第2種チームに所属しながら、Jリーグの公式戦に出場することを認められること)することになりました!

セレッソ大阪ユースでの阪本選手

柴田|
うなぎのぼりの成長ですね!

阪本選手|
そうですね!高校2年の時は左サイドでほぼ全試合出場して、最後にトップチームのキャンプに帯同しました!
ただ、キャンプからユースに戻ってきた時、ユースの監督から「ユースでお前のポジションなくなったから」と言われて、急にボランチになりました。
当時は、もともとずっとFWだったので「なんでFWじゃないだ…」と不満に思っていましたが、「調子に乗るなよ」というチーム側のメッセージでもあったのかなと今になって思います。

柴田|
厳しさであり、優しさの側面もあったのかもしれませんね。

阪本選手|
そうこうしているうちに高校3年生になって、夏に天皇杯に出場しました!試合の1週間前に「次の試合ベンチ入るから」って言われて、ヴィアティン桑名(現:ヴィアティン三重)との試合の後半から出場しました!当時のセレッソ大阪は結構凄いメンバーが揃っていて、南野拓実選手、山口蛍選手、乾貴士選手など錚々たる面々の中で出場しました!でも、心境としては、緊張というよりもワクワクしていましたね。というのも、失うものはなかったし、先輩たちからも「得意なプレーをなんでもやれよ!」と背中を押してもらっていたので、とにかくワクワクしていました!

柴田|
それにしてもそれだけの舞台で錚々たるメンバーの中で楽しめるっていうのは、メンタル強いですね!

阪本選手|
そして、後半から出場したその試合で自分が2点を決めて、4-2で勝利しました!めちゃくちゃゴラッソ(スーパーゴール)を決めて、自分でも運が良かったなと思います(笑)。

柴田|
いや、勝負強すぎますね!やっぱりメンタルが屈強です(笑)。

阪本選手|
その結果もあって、そこから定期的にベンチ入りすることになりました!トップチームとユースを行き来する感じで、ユースでは変わらずボランチで出場を続けており、プレミアも優勝することができました!
そんな中で、高校3年の夏頃に、トップチーム昇格を大きく決定づける「ドイツ遠征」が毎年あったんですけど、ユースの監督に呼ばれて「このままだったらトップに上がれないから」と言われたんです。「納得するプレーをドイツで見せられないと、たとえトップチームの監督がいいと言っても、トップに上げることはできない」と告げられました。
だからこそ、ドイツ遠征は並々ならぬ気合を入れて挑みました!その結果、ドイツ遠征後の後日にユース監督から「トップに上がれることになった」と伝えられ、トップチーム昇格をつかみ取りました!

柴田|
さすがですね!阪本選手は、壁や苦難にぶつかっても、それを跳ね返すだけの「精神力」と結果を出す「勝負強さ」がありますよね!

ヴィアティン桑名(現:ヴィアティン三重)戦の阪本選手

厳しさの中に見つけた“大切なもの”

柴田|
天皇杯でのトップチームデビューで2ゴール決めて、セレッソ大阪のトップチーム昇格と怒涛の活躍だったと思うんですが、プロ1年目はいかがでしたか?

阪本選手|
とにかくプロのレベルの高さに圧倒されましたね!当時のセレッソは、杉本健勇選手、フォルラン選手、山口蛍選手、秋山大地選手など精鋭たちが勢揃いで、日本代表に1回は入ってないと出られないくらいの黄金世代でした!
ここで初めて、「こんなに上手い人いるんだ」っていう驚きを感じました。
そして、2、3年目の頃にU-23ができたんですけど、それが僕にとってはあんまりよくなくて…。全体の中で分かれて練習することになるので、経験としては大事だったんですけど、トップクラスの選手と一緒に練習できないというのは、僕の中では少し厳しい時期でした。やっぱり「とにかくトップチームで試合に出たい!」っていう気持ちが強かったので…。

柴田|
当初描いていた通りにいはいかなかったんですね。

阪本選手|
時には紅白戦にすら入れない状況のときもあって、紅白戦後に出てない人たちでパス練習をする、みたいな。そこから練習後にクラブハウスでトレーニングをし直すことになるので、僕にとってはとても辛い時期でしたね。
そして、そのあとセレッソをクビになってしまったんです。間違いなく、これより辛い日は一生ないと思いました。「生涯セレッソでやるんだ!」くらいに思っていたので、本当に苦しかったですね。
それでも、自分に「大丈夫。大丈夫。」と言い聞かせてました。周囲の先輩や仲間にもご飯に連れていってもらったりして、支えてもらいながら自分を保ってましたね。でも、やはりその時の仲間の存在があったからこそ、「もう一度この人たちと同じピッチに立ちたい!」と強く想うようになりました!

柴田|
そんなことがあったんですね。でも、そのどん底から這い上がれるのは、さすが鋼のメンタルだなと感じます。そこから鹿児島ユナイテッドFCに移籍されるんですよね?

阪本選手|
そうですね!ただ、移籍後もなかなか試合に絡めない時期は続きました。やっぱり周りのレベルが高くて…。今思えば完全に僕の力不足なんですけど、サッカー的にも合わない部分もあったりして、厳しい時期はその時期も続いてましたね。

柴田|
そうだったんですね…。

阪本選手|
その後、出場機会を求めて、FCマルヤス岡崎に移籍しました!サッカーを楽しくないと思ったことはないんですけど、試合に出れないというのは、僕には楽しくなかったので…。
ただ、これまでの移籍は今振り返ると全て良かったなと思ってます!移籍を繰り返す中で必然的に人と出会うことができて、それぞれの場所で色んな人に出会えることにすごくワクワクしていました!「人生」という長いスパンで見た時、とてもいい経験だったなと思ってます!

FCマルヤス岡崎時代の阪本選手

沢山の人との出会いを繰り返し、見えてきた自分のあゆむ道

柴田|
その後、FC延岡AGATAに移籍されたんですよね??

阪本選手|
そうですね!その時は、「サッカーでチームがより上を目指している」ということと「セカンドキャリアを考えた時に自分のためになる」という2つの観点で移籍を決意しました!それまでは、海外でプレーすることも視野に入れていたので、お話が来た時に少し悩んだんです。失礼ですけど、「延岡ってどこ??」っていうのもありましたし(笑)。
ただ、FC延岡AGATAの社長とお話した時に、その熱意にやられてしまって…。社長のビジョンに共感しましたし、営業職も経験してみたかったので、自分に一番合ってるなと感じて、移籍することを決断しました!最近は忙しいけど楽しいです!!

柴田|
そうなんですね!サッカーもお仕事もすごくいきいきされている感じが伝わってきます!これからの展望はお考えなんですか??

阪本選手|
そうですね!正直僕自身はサラリーマンには向いていないんじゃないかと思っていて、ゆくゆくは自分で会社をつくったり、お店を出してみたりしたいと思っています!
このチームに入って、おかげさまで経済的な側面の解像度が上がったんです。遠征費にどれくらいお金がかかっていて、自分がプレーするためにはどれだけのお金と人が動いているか、今はすごく近い距離で実感してます。
それでも、「自分を応援したい」という経緯からスポンサーになってくれる人もいて、僕もいずれはどこかのチームのスポンサーになれるように頑張りたいと思えるようになりました!

柴田|
応援されていた選手が、いずれ誰かのスポンサーになるというのは、素敵なストーリーですね!将来がとても楽しみになりました!

現所属FC延岡AGATAでの阪本選手

せっかく一度きりの人生、楽しく生きる。

柴田|
阪本選手は、サッカー選手としては熱い気持ちを持たれてますが、人生のことになると結構俯瞰で見ていますよね!

阪本選手|
そうかもしれないですね!サッカーだと、「このチームを上のカテゴリーに上げたい!」っていう強い思いがあります!サッカー選手である以上、僕が返せる部分はそこしかないと思ってるので…。
でも、人生を通して考えると、「やっぱり楽しいことをしたい!」とは思ってますね!僕は、人生そのものには意味はないと思ってるんです。でも、だからこそ、「せっかく生きてるんだから、楽しいことをするために生きよう」って決めてます!今は、サッカーを含め楽しいことをしつつ、お金を稼いで、将来的にはみんなが楽しめるようなお店をつくりたいなと思ってます!
でも、そうやって俯瞰で見られるようになったのも、トップレベルの選手とプレーしたり、クビになったり、チームを転々としたり、その中で色んな人と出会ったりしたからこそ得た考えだと思います!改めて振り返ってみて、いろいろあったけど全部意味があったなって思います!

選手の“人生”を応援するアプリ「UPSTAR」に関するお知らせ

柴田|
いかがでしたでしょうか!?今回は人生をかけて日々闘っている選手にインタビューをさせていただきました!

現在、私たちは「UPSTAR(アップスター)」という現役スポーツ選手(プロからアマチュアまで)とファン・サポーターを繋げるファンコミュニティスマホアプリを開発しております!選手からのメッセージを通じて、試合のプレーだけではない「選手の裏側や魅力」を知り、その選手の「人生」をより深く応援することができるスマホアプリです!

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