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看護学生のインタビューレポートから:身近な人の学生運動経験を聴く

学生運動の隣で


那覇市在住 70代女性 宮古島出身 Y氏 母

テーマ設定の理由:講義で沖縄返還、復帰運動の話を聞いた時に、学生運動に没頭した父の話は母からきちんと聞いたことがなかったので、よいチャンスだと思いインタビューすることにしました。寡黙で多忙な母に今までも2回聞いてみたことがありましたが、10代前半に聞いた時は「まだ話したくない」と言われ、亡くなって10年経ってもまだ父を大切に思っている母に驚いた。10代後半で聞いた時は、「誤解される恐れもある、あなたの理解に自信がないので簡単には話せない」と剣もほろろに断られました。楽しい思い出や父像は時々聞くが学生運動について母から聞くのはやめていた。それから30年経ち、私も大人になりやっと母に認めてもらえたのか、母が歳をとったからか、インタビューに応じてもらうことができました。

Q  沖縄が返還された年には何をされていましたか?
A 仕事をしていました。働き始めたばかりで忙しかったです。

Q 何をおもわれましたか?
A 色々不満はあれどよかったという思いと、日本国へ帰国するなんて不思議なパスポートもいらなくなるなと。

Q 不満とは
A 米軍基地が残ることによる問題は解決していないため。

Q パスポートについてですが、二人とも留学生として沖縄から東京、福岡の大学へ入学したわけですが、当時安保闘争で学生運動が激しく父は学生運動に入り込んでいく中で逮捕、国費の打ち切りを告げられて、そこから処分撤回運動、渡航制限問題へと発展し、復帰運動へ合流していくわけですが、そのなかで婚約者として近くにいて学生運動には加わらなかった理由はなんでしょう。
A (彼も)そこにいたるまでにたくさんの過程がありました。(溜息)夢を持ちまた、ただ田舎を出たかっただけでもある、大手をふって田舎を出るには学ぶのが一番だった、上京して初めて知る事実、見えること、学ぶことで考えも変わっていく。ただ私は彼ほど勉強できなかったから余裕がなかった、学業に専念することが私の闘いでもあったというだけで(学生運動することの)共感するところもあった。

Q 学生運動はともかく処分撤回運動を手伝い、祖母(学生の父の母)と当時の文部省へ行くなどしましたよね、祖母はその時の父や他の人とも丁々発止とやりあう様子から怖がってましたよね。叔父は「烈女」だと言っていましたが。
A (眉間に皺を寄せて)人のことをそうやって茶化すのはよくない、後からならなんとでも言える。

Q すみませんでした。でもそれほどの強さ?があって思いは同じだといっても運動に参加をしなかったのには深い理由があるのですか?
A 参加してなかったのがおかしいと言いたいの?

Q いいえ、そうじゃなくて一緒に暮らして聞いてきた主張と印象から意外な気がするので。
A (溜息)さっきも言ったけど、学生の本分は学業である。(だいぶ間が空いて)暴力が嫌い。高校生の頃近くの米軍基地の子が、黒人さんだったけどグランドを見ていて。今考えるとずいぶん若かった、私たちと同じ年頃だったのかも。教会の牧師さんが一緒にバスケットをしようというと楽しそうにきてよくバスケットをしたりしていたの、ある日牧師さんが学生の勉強になるから一緒に英語の勉強をしよう、先生になってくれと頼むと、困ったような顔で笑って一緒に教科書を見ていたんだけど、しばらくすると黙って帰ってしまったの。それから来なくなっちゃったんだけど。字が読めなかったのよね、そうは言えなかったけど学校に行きたかったのかな、そういう一人一人が兵隊となり戦争にむかう。彼は若く黒人さんで沖縄の基地にいる、きっとベトナムの最前線にいったのではないかな。無事で帰れただろうか。(溜息)知りたいこと、守りたい人がいること私は学ぶことでしか答えが出ないと思っている。命を賭しても守らないといけないものがあるなんてあなたには陳腐に聞こえるだろうけど、皆真剣に思っていた。私は自分にできることを頑張ろうと思っていただけ。

Q 団塊の世代、数も多く時代は自分たちがつくるという気持ちがあったのかな?
A なんか傲慢にきこえるね、あなたの言い方だと。時代をつくる・・・かえる・・・どの言葉もしっくりこないけど、自分が動かなければ何もかわらないんじゃないの?

Q 沖縄復帰に一番期待したことはなんですか?
A (だいぶ間があく)一番って(溜息)。本土並みね、本土並みの教育、ま、あってもやらない人もいるんだけどね(これは私に対する嫌味)。インフラ、経済、安全。どれもまだ途中。 質問が漠然としてない?

Q 失礼しました。最後に高校生からの恋人(父)がかわっていく様子をみてどう思ってましたか。
A ばかか(笑)何もかわってない、チェゲバラに憧れる、お調子者。正義感の強い人。船乗りになりたいって中学の頃は言ってたけど。高校で結核にかかったからなれないなって。そういう人。

〜〜たくさんの会話を省略〜

楽しく学んでるようですね、是非続けて体系的に物事を学んでください。努力を怠らないで。沖縄はまだ全部返ってきてないから。

母にインタビューをしての感想
70年代学生運動はその後の経緯もあり、語られるのがはばかられる空気があった。大きなうねりではあったが1972年の大学進学率は20%で現在の55%(現役生で短大、専門を含む高等教育進学率は80%を超えている)とは全然違う、少数派である。しかし、20%の高等教育を受けた人間だったということで、その後各界で活躍する人が多かったため(特にメディアと教育、医療)美化されてしまっているところと、悪かった面がクローズアップされるのを忌避してか、くさいものに蓋という状態になっているのではないか?今で言う黒歴史のような。実際のところ当時の世論調査でも否定的な人が圧倒的多数だ。ウィキペディアで安保闘争と調べる、60年安保と比較すると70年安保の記述はずいぶん少ない。しかしもとをただせば地方からでた普通の若者達がよりよい未来を願って行動した、勉強させてもらえることに感謝し、社会をよくする責任を感じていたのではないだろうか。選民意識と鼻で笑うのも違う気がする。ただこれらのことが今現在も呪いのように足枷となり若者が立ち上がるのを邪魔する空気、または毒気をぬかれてしまったのではないか。インターネット、SNSの普及により社会階層にしばられない自由な改革が起きる素地はできあがっている。反省すべきは反省し、世代を問わず風通しよく話できる新しい時代に感謝して、何ができるのか、何を調べ語るのかが問われているのではないでしょうか。

感想2
考察しようと思いましたが、難しかったです。父の死と私の誕生は4ヶ月の間に起こったできごとで、顔も知らない父に対する憧れは父の友人や兄弟のおかげで持ち続けていました。何かしらドラマチックに思っていたところもあります。結婚してから、九州の田舎に住む私の夫の両親(私の父母と同世代)の学生運動に対する苦々しげな態度を見てはっとしました。同じように地元をでても集団就職で金の卵だった夫の両親たちには違った景色だったと気付かされたからです。目の前のこと働かなければならぬ、養わなければならぬ責任は人を強くもしますが、余裕をなくすこともある。まずは私の第一歩として、考えることをあきらめず、まとめて発信できる力を持てるように努力してみます。父の生き方を10代のやなわらばーだった私に自分勝手、好き勝手に生きたと取られるのが嫌で話したくなかった母と、話する機会をつくれたことに感謝します。

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