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磯貝卓郎 55歳 文芸誌編集者 

 突然歳の離れた知人から、なんでもいいから文章を書いてくれ、と頼まれた。普段の私であれば、隔月発刊の文芸誌の準備で追われており、すぐに断りを入れていたはずだ。文芸誌全般としては部数が減少しているが、最近では20代の新たな読者が増えてきたために徐々にネット媒体に移行しつつあるので、何かと憶えることや、やることが増えて、地味に忙しい毎日を送っていたのだ。しかし、このコロナ禍によって全くと言っていいほど生活が変わってしまった。仕事柄、客商売やサービス業に比べてリモートワークが可能な部分が大きいが、変わったのはフィジカルな面でなくむしろメンタルな面であった。
 文章の依頼など、普段は作家に発注してばかりで自分が受けることになろうとは思っていなかったが、この機会に一度書いてみることにする。

 22年前のことだ。私が初めて一人で担当した作家は、銀蝿太郎(仮名)というハードボイルド作家だった。一口でハードボイルドと言っても銀蝿の場合、無人島に捨てられた男が大きい黒豚に育てられやがてサイコ物理学者になって最後には地下アイドルに集団で蹴り殺される、というような狂気的なものが多く(これを書いてしまえば誰の作品か判ってしまうが)、大学を出て間もないその当時の私には全く理解できなかった。しかし、一方でサブカルもしくは文学青年が嵌りがちな刺激的、中毒になる作風と評され、一定の読者層を持っていた。

 板橋本町の排気ガスで塗れた街の裏路地に、銀蝿太郎の家はあった。一軒家とはいえ全体的にくすんだモルタル造りで、どこからどう見ても不健康な人間が住んでいる、ことがよくわかった。玄関が開いていたので恐る恐る、すみません、と呼びかけると5秒後ぐらいにヌッと坊主頭の恰幅の良い銀蝿太郎が顔を出した。歳は40半ばごろだったろうか、薄茶色が差した丸メガネで、麻製の浴衣を着ていた。なぜかオペの前の外科医のように両腕を前に出し肘で90度に折り曲げ両手の指先を上に向けていた。銀蝿は私を見るなり、お前は味噌好きか、と尋ねてきた。
 こいつ危ない、と本能的に私は思った。はじめまして、の挨拶の前に人の嗜好、特に味噌に限って尋ねてくる輩は気違いか、重度の薬物中毒者である。私は、狼狽えながら、はい…、と答えると銀蝿は、よし来い、といって私を中へ促した。
 いわんや、室内には味噌が散乱していた。後で聞いた話では、銀蝿はその時味噌漬けの壺の中に茄子やら人参やら胡瓜やらを手掴みで放り込む最中であった。その折、玄関から不意に男の声がしたので慌ててしまい、味噌壺が落下、味噌壺がスローモーションで割れる時間に、ああ新しい担当が来ると言っていたなそういえば、と思い当たったらしい。しかし、その時自らの両手は味噌まみれ、片付けるには両腕を洗ってからではならんが、そうしていると新しい担当が帰ってしまう、ので、玄関に出ることにしたが、事情を話すと新しい担当は自然掃除を手伝わなければならんことになり、もし新しい担当が味噌嫌いであった場合、大変な苦行を強いてしまうため、第一声が、お前は味噌好きか、となってしまったのだ、つまりお前を気遣ってのことだ、という。
 そう言った銀蝿の話を、大方味噌片づけが済んだ居間で昆布茶を飲みながら聞いているうち、私は微笑みながら、大変な奴の担当になった、と思った。
 何というか、気違いが、気違いだと悟られないように必死に常識的な何か、例えばそれは気遣いのようなもの、で上塗りしている感覚をおぼえた。思い出せば銀蝿は何かと私のことを気遣っているそぶりを見せていた。私が訪ねる度に、好きそうだ、と言って茶菓子を出したり、外は寒かったろうと暖房を入れてくれたりしていたが、大抵その茶菓子は消費期限を過ぎていたし、暖房は暑過ぎた。
 私は結構、不信感やその時の感情が表に出てしまう。銀蝿はそれが不服らしく、お前はいつも不機嫌そうな顔をしている、と言われた。
最初は私のことを「銀蝿太郎」の担当だから「チンポコ次郎」と呼ぼう、と笑いながら言われたが、私が能面のような顔で「それはなぜですか」と尋ねると、次の日からは「磯貝くん」に変わっていた。

 そんなやや強烈な編集者デビューとなった私だが、不思議と銀蝿との相性は良かったようで、翌年には3万部を超えるヒット作を生み出すようにもなった。勘が良い方ならお分かりかと思うが、鞍馬天狗が現代に蘇り、インチキ映画評論家と組んで、ちびっ子宗教団体と全面戦争する物語である。 
 銀蝿には通じて5年もの間、担当としてついたが3年目の春、世間を騒がせたあの「チンパンジーおじさん爆破予告」事件が発生する。
機会があれば、次の稿ではこの事件の顛末を描きたいと思う。
 今これを書いている部屋の窓から新宿西口の夜景が見下ろせる。人がほとんど歩いていない大都会は、下卑たネオンだけが揺らめいていて何だか悪夢の只中にいるようだ。
一刻も早くこの暗い夢から醒め、穏やかな日常に戻ることを心から願って筆を置く。


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