「世界」という勘違い

先週、ボイジャー1号の通信トラブルが、一部復旧したという報道が、有りました。

これは、僕には、なかなか面白いニュースに思えた。 

我々は、日頃、見たり、触れたり出来て、確認できるものだけを「存在・実存」とか「実態」等と認識しているが、 そもそも僕は、そんな通信トラブルが、有った事すら知らなかったから、僕にとって「通信トラブル」は、無かったも同然だ。

この状況をそのボイジャーに当てはめて考えると、なかなか面白いと思うので、検証してみます。

 そもそも、ボイジャーは「惑星探査機」だから、地球以外の星や、宇宙を探査する機械だ。その探査機が通信トラブルに陥っている間に、
何らかの大発見(例えば火星人とか)が有ったとしても、

通信出来なきゃ、その情報は地球に届かないから、通信が、復旧するまで、その「火星人発見」は成立しないので、その火星人は、我々には、存在しないも同様だ。

こうした情報と認知と実存の奇妙な相関関係は、不思議で、矛盾しているように思えるが、この手の不思議は、地球では、よくある事です。
 例えば我々がまだ原始の海を漂うだけの原始的な生命で、進化を始める前は、地球上に視覚・聴覚・触覚等の知覚を持った生物が一匹も存在しない筈だから、その「原子の海」って存在は、成立する?誰にも、知覚されず、そこに何者も存在しない頃にも「世界」は有った?

 

我々が普段「世界」と呼んでいるものは、

昔、バクテリアだった我々が何億年もかけて、進化し視界・聴覚を得た事で、姿を現し、

音も、そのように生物の進化に伴い、じっくりと発生した筈だから、今、はやりの「ビッグバン宇宙論」なんてデタラメかもしれませんね。

物理・科学的な解釈だけが、真理じゃない筈だ。「生物の進化・知覚の推移」を軸に世界を見ると、世界は、また、違った姿をしている。

一つだけの真理を探ろうとするから間違えるので、真理とは多角的に求めるべき物なのかもしれません。複数答えて、どれか当たればラッキーってゆるいスタンスが学問にも有って良いのでは?

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