「無」は有る?

我々には、言葉を正しく使う習慣が無い。 
少なくとも僕は、日頃、日常的に、よく口にする言葉の意味や定義を、いちいち検証して使ってないから、「知ってるつもり」で、よく分からない言葉を不用意に使ってしまう事が有る。

 

例えば、「世界」とか、

世界ってヤツは、シンプルな言葉だけど、実に厄介で、摩訶不思議な概念です。

たとえば、先日、玄関先でコオロギが一匹死んでいた。生前、彼の暮らした「世界」と今、僕が居る「世界」は、まるで様子が違う筈だ。僕とコオロギの知覚が異なるからです。

僕は、視覚と聴覚を持っているから、僕の居る世界は、光(色彩)と音に溢れているが、

彼(コオロギ)の知覚を僕は、詳しく知らないけど、きっと、その視力は我々、類人猿より劣っていると思う。 彼らは、触角と嗅覚で世界を捉えているようなイメージがあるからです。

つまり、彼らの世界には色は、無く、音は、ただの「振動」に過ぎないだろう。

しかし、そんなふうに低い視覚しか持たない生物の方が、世界がよく見えているのかもしれない。何故なら「視覚」とは、進化の賜物で、何十億年もかけて、我々は、少しずつ、光が見えるようになったのだから、地球に生命が誕生し、進化を始める前の世界は、そこに何者も居らず、何からも知覚されない。つまり、光も音も存在しない、空疎で「空っぽ」の何も無い空間が、原始の(本来の)世界の姿の筈だ。そんな奇妙な所で発生した生命は、それぞれの進化を辿り、我々は、類人猿の知覚を宿し、その知覚が感じる全てを「世界」と呼んでいるだけだから、我々と異なる知覚を持つ生物の感じている世界は、知覚に応じて違う姿をしている筈です。類人猿にとっての世界、コオロギの世界、深海魚の・・・と世界には、無数の姿が有る筈だ。

もし、原始の地球の太古の海で、生命が生まれ、進化を始めなかったら、世界は、成立しない筈だ。「世界」そんな奇妙なモノ本当に存在する?我々はそんな、おかしな場所に住んでる?そもそも「宇宙の始まり」=ビッグバンは、「無」で起こった物理現象だったんでしょ? そもそも「無」って何なの?それは、我々には「不可知」で成立不能な概念の筈だ。 たとえば今、僕の前に、中に誰も居ない、何も無い、完全な空室が有っても、ドアを開き、中の様子を確認しないと「中に何も無い」は成立しない。

これを「宇宙」にあてはめると「ビッグバン」以前が「無」なら、それを知覚する主体が存在しないから「無」は成立しないでしょ? なら、世界も成立しない?

「世界」やっぱり,僕には、理解不能です。その名称から、分かり易く変えてくれません?「我々の居る場所」「足元」で充分でしょ。「世界」なんて大げさすぎる名前は要らんよね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?