面影という風物詩

先日、ポストに遅れて届いた年賀状が入っていた。三賀日開けてから届く年賀状は、特別な味わいが有る。

僕は、若くないし、いとこ達も同様だ。
叔父・叔母となると、当然、もっと高齢だから、年賀状には、もう若くない我々にとって、安否確認の相互報告という側面も有るから、元日に届かず、気になっていた先方から、三賀日開けてから届くと「なんだ、遅れていただけか。」と、ほっとするし、普段は、疎遠で、よくある「年賀状だけの付き合い」の親戚でも、近況が気になり、電話をかけてみたりする。たとえ、年賀状だけの付き合いになっていても、繋がりが有るって素敵な事だと年賀状越しに遠い面影に想いを馳せながら思いました。
郵便とは、舶来の文化だけど、年賀状は日本的な文化だと思います。
我々は文字と情の民族だからです。

しかし、近年、年賀状の発行枚数は激減しているらしいです。この、おもむき深い日本的な風習は、廃れてしまうのでしょうか?
このままでは、僕の一族の安否確認が不要(生存者不在)になる前に、その確認手段の方が先に、消滅してしまう。
「どのように年を越し、どう新年を迎えるか?」は、お国柄の現れなので、僕は、日本のお正月に、初日の出・おせち・年賀状は、欠かせないと思います。
どんなに時代がデジタル化しても「文字・文面から遠い面影に想いを馳せる」という風習は損ないたくないものです。

新春に届いた便りに、人を想い偲ぶなんて、日本的で、素敵な風物詩だと思いません?

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