映画「窮鼠」は、2020年の倫理観を意識していたのではという話

 こんにちは、オタクです。「窮鼠はチーズの夢を見る」実写版映画を見てきました。

 オタク的に言うと、忘れていたクソデカ感情が揺り起こされると、愛しさ通り越してマジで吐き気するんですね、って感じでした。原作を読んだあと数年かけてゆるやかに消化したはずものが突然胃の中でよみがえり、胸やけを起こしたみたいなワケわからん感情でぐずぐずになっています。さながら恭一に再び出会ってしまった今ヶ瀬のように。

 実写ならではの良さだったり、演者や映像的な良いところもたくさんある一方で、気になる点もありました。いつも刺さる映画を見た後は、いろいろな人の感想やレビューを読ませていただいて感情・情報を整理するのですが、たまには自分で感想を書いてみようと思います。(レビューではない、ごく個人的な感想です)

はじめに:私の属性について

 この感想には恋愛への価値観、ジェンダー論、性的マイノリティの捉え方といった個人の思想に触れる部分が出てきますので、念のため、先んじて私の立ち位置を明らかにしておきます。

 私はアラサーのマンガオタクで、いわゆる腐女子です。恋愛ものが全般的に好きで、男女、BL、GL、それ以外なんでも楽しく読みますが、特にBLが好きです。(現在はBLを平均して月10冊ぐらい読み、それ以外は勧められたり話題になっていれば読むという感じです)

 映画については、月に1~2本を劇場で見る程度のふんわりファンです。特定の役者やスタッフを追いかけているわけではなく、ハリウッドも邦画もそれ以外も、話題作から気になったミニシアター系まで拘らずに見るタイプです。テレビドラマは、2015年くらいまでよく見ていましたが、最近はたまに気になったものだけ見る程度です。あと、ジャニーズに関しては長らく茶の間ですが、退所やなんやかんやで今は担当いません。

 性的指向は自分でもよくわかっていません。現在の性自認は女性ですが、完全なシスではなくXジェンダー寄りの部分があり、おそらくデミセクシャルです。(スペクトラム的な話ですし、しっかり明らかにしたいとも思っていないので、曖昧なまま生きてますが人生楽しいです)
 このへんがフワフワしている事情もあり「ダイアモンド・ヘッド」「放課後保健室」がぶっ刺さりまくって2004年~2012年くらいまで水城先生の作品を追いかけていました。(そしてブレックファスト、スリィピングビューティ、1999年七の月-上海あたりでメリバ性癖を獲得してしまった。笑うところです)

1:「窮鼠」と「俎上」と私

 そんなわけで水城先生の作品の過激派オタクをやっていた私は、2006年にその水城先生が久しぶりにBLを描いたと聞き、慌てて本屋にすっ飛んでいきます。「窮鼠」の原作は、その時に買ったジュディーコミックス版の単行本で初めて読みました。そこには(当時の)最近の絵と作風で描かれた水城せとな先生のBL世界があって、割と単純に「いい作品だなぁ」と思ったように記憶しています。
 2006年のリアルな世相感。決して90年代やおい的な「禁断の恋」ではないけれど、どこかに後ろめたさが残っている。恭一の外見上華やかな生活と、どこか自棄的な今ヶ瀬の姿は「2006年の20代後半」のリアルだったのでしょう。マスが正義だった90年代に、性的マイノリティがコミュニティでどう生きてきたか、どう扱われてきたかが滲み出るように感じます。

 2009年、続刊「俎上」の単行本が発売されました。前作が良かったから続きも読んでみよう……軽い気持ちで開いた本の中にあった恭一と今ヶ瀬の物語の「つづき」は、本当に、本当に衝撃でした。今までBLに抱いていた感情が全てすっ飛んで、BLとは何なのかすら分からなくなってしまったような気持ちになってしまったんですよね。作品に絡めて言うなら、まさに「自分の形がわからなくなる感じ」で、それまでBLのファンタジー性に対して感じていた小さな違和感と、自分が無意識に作り上げていた固定観念がすべてぶち壊された、と思いました。惜しむらくは当時布教のために書いた長文感想が残っていないことです。

 何にそこまでの衝撃を受けたんだ? というと、2点思い当たるんですが……。

 1点目。恭一が今ヶ瀬を抱くシーンで、今ヶ瀬が「先に先輩にネコやらせといてよかった」「どうすればイイか全部わかってるでしょ」的なことを言ってたと思うのですが(いま手元に原作が無いので、セリフうろおぼえで申し訳ない)いや、当時はほんとに目ん玉飛び出ました。今ヶ瀬めちゃくちゃ貪欲だなと思って。
 私はリバ自体はアリ派なんですが、このシーンまで今ヶ瀬は普通にタチだと思っていたので本当に驚いたし、スゲーーーーーーーーって思いました。時間をおいて発刊された続編でのリバ描写。かなり攻めてますよね……。

 重要なのが2点目、恭一が「お前なんか、俺が女だったらハナにも引っ掛けなかったくせに」と言うシーン。超ド級の正論に、目から鱗と涙がボロボロ落ちた記憶があります。そうなんだよな~、はじめは今ヶ瀬にとっての恭一って「性的に興味のある『男』たちの中のひとり」でしかなかったはずなんだよね。(その後どれだけ唯一無二の存在に変わったとしても)
 それから色々あって、恭一にとっての今ヶ瀬は、本当に唯一無二の存在になってしまった。でも今ヶ瀬は本当に、自分を唯一無二の存在だと思っているのか? この思いは本当に「同じ」なのか? 自分だけが引き返せない沼に入っていこうとしているのではないか。窮鼠でもそんなようなことボヤいていたと思うけど、そりゃ、不安になりますよね。

「同じ同性愛者の男ならきっと、こんな程度じゃなくもっと愛してやれる」

 っていうのはその通りで。掛け値なしに「好きになれると思ったから好きになった」が成立する、ある意味で対等な関係性だ。でも恭一と今ヶ瀬は違う。恭一が堕ちた瞬間から、今ヶ瀬のほうが強くなってしまうんです。少なくとも恭一からしたらそう。だから恭一はずっと迷っていて、絶対に惹かれているのに認めきれなかった。今ヶ瀬と暮らすようになったあとも恭一が煮え切らなかったのは流され侍だからではなく、決定的に堕ちる決心がついていなかっただけなんだと私は思っています。
 元々ヘテロの恭一が男を抱いた時点で、その答えは出た。性指向も固定概念も全部取っ払って、ただ繋がりたいと思った。それが愛でなくて何だというんだ?
 けれど、今ヶ瀬はそれほどに愛されてなお、恭一を信じられなかった。だから今ヶ瀬がダメだと思うなら、もうだめなんです。それは恭一が今までずっとふらふらしてきたツケである以上に、今ヶ瀬が誰のことも信じられなくなってしまっていたから。2009年に30歳になる(おそらく)1979年生まれのゲイである今ヶ瀬は、それだけ強い劣等感と、社会からの疎外感を感じながら生きていたからだと思うのです。

 だから「ゲイのお前には絶対わからない」んだよ。わかられてたまるか。ほんとにな。

 「俎上」のラストは、90年代の水城先生のBLとは異なる「救い」を感じさせるエンディングでした。うまくやっていける保証はないけれど、やっていこうと決めた恭一。ようやく少しだけ信じてみようと思った今ヶ瀬。
 時代は2009年。純情ロマンチカのアニメが流行ったり、日本人でも海外で同性婚できるようになった頃(でしたよね…確か…)のことです。

 時は流れて2019年、映画化の報を受けて7年くらいぶりに読み返した「窮鼠」「俎上」は、私に当時ほどの衝撃を与えてくれませんでした。変わらず面白いんですよ。でも「そうそう、00年代後半のBLってこんな雰囲気だったよね」という感じ。これは私が00年代に90年代のBLを読んだ時と、ほとんど同じ感想でした。
 決して悪い意味ではなく、10年強の間に世間の価値観がアップデートされたという話です。表現上の価値観は、この15年弱でかなり変わってきている。ある意味「窮鼠」原作はそのターニングポイントでもあり、パラダイムシフトの先駆け的な側面があったのかもしれないと思いました。

2:いざ映画館へ…

 前置きが長い。

 さて、窮鼠シリーズにそういったクソデカ感情を抱いている私ですが、映画が公開されたと聞き、おっかなびっくり見に行ったわけです。

 大倉くんも成田くんも役者としてそれなりに好印象を持っていたし、スタッフも良い方が集まっているので「良い映画」になっているだろう……と、映画ファンの私は思っていました。
 しかし同時に、過激派限界オタクの私は「解釈違いこじらせすぎて劇場内で死んでしまうのでは???(オタクにありがちな誇張表現)」という想いがぬぐい切れず、もうそれは決死の覚悟、震える手でなんとかチケットを購入し、さながら死刑を待つ囚人のような顔で着席しました。そして始まる怒涛の脳内会議。

映画ファン私「よく出来てるに違いない! スタッフを信用しろ!!」
ポリコレ私「信用??? 題材が繊細すぎる、2020年の価値観では云々」
原作過激派私「あのセリフとあのセリフとあのセリフとあのセリフほしい」
腐女子の私「原作めっちゃセックスしてるじゃん? どこまでやる?」
ミーハーの私「大倉忠義の顔がいい!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 脳内ポイズンベリーか?

 結局、鑑賞中もずっと様々な視点の自分が脳内でめちゃくちゃなケンカをしながら見ることになりました。これ見る前にもう1本別の映画を見ていたのもあって、とんでもなく疲れた……。これから見に行かれる方で、原作ファンの方や私と属性が近い方は、どうかご注意ください。脳みそフル回転になってめちゃくちゃ疲れるので、他の重要な予定を前後に入れないことをおすすめします。あと絶対に一人で見に行ってほしい。(いろんな意味で)

3:感想(映画ファン視点)

 ようやく本題ですが、まず映画ファン的な視点での感想です。

 評価としては中の上、と言う感じ。よくできているんだけど、玄人向け感が否めず、ちゃんと咀嚼しないとだめ。演者や話題性目当てで見に来る層が肩透かしを食らいそうな映画でした。エンタメ性を期待して行くとちょっと違うかもしれない。

 脚本。あくまで「窮鼠」を原作としてとらえるなら、かなり丁寧になぞっていて作品を大事にしている感じがした。しかも安易に当時の話にせず、2020年の世相を反映しつつの映像化です。尺の都合で端折られた箇所はあれど、大筋だったり重要な感情はしっかり拾っていたように感じました。
 特に夏生まわりのエピソードは、時代背景の変化を反映しつつも原作をキレイに活かしていて、より醜悪な口喧嘩に仕立てているのがうまいと思った。2020年のダイバーシティを理想と掲げる社会情勢で発せられる「選べないの!? 女と、男だよ!?」の破壊力たるや。10年前ならまだ「感情的になった結果ぽろっと出てくる本音」として処理できた言葉だと思うけど、2020年の価値観でこれをLGBTQ+当事者に面と向かって発するのって「ドブ」発言以上に露骨な悪意を含んだ挑発だと思いませんか? しかも恭一はその場では「普通の男には無理」とかいって女を選んじゃうからね。多様性なんか建前だっていう現実を突きつけられる痛々しいシーンです。

 演者の話。すごくよかったと思う。「2020年の窮鼠」として細かな部分がリファインされた脚本の改変意図を掴みつつも、原作で大事に描かれていた部分の感情をきちんと汲み取っていて……。主演2人はもちろん、女性陣などわきを固める人々もそれぞれ個性が光っていました。

 序盤の大倉くんはしっかりと現代の勝ち組アラサーだった。一般的にはリーマンショック後に就活した層が20代後半で専業主婦を養いながらあのレベルの生活できるわけはないので、序盤の設定を活かすには、映画版恭一は原作以上にめちゃくちゃ頭がよく仕事できるマンの勝ち組でなければいけない。若くして役職付き、上役にも目をかけられているからこそ、あのポジションにおさまることができる。顔と外面がよくてそこそこ育ちのいい流され侍では生活風景に説得力がないのだ。
 大倉くんの恭一は、そのへんを完全にカバーしていた。あの顔であの態度で仕事できるんならスーパー勝ち組になってもしょうがねーよなーという気持ちにさせてくれる。自転車通勤が健康のためなのか節約だったのかはわからなかったけど多分健康のためだろう。勝ち組だからなぁ。

 成田くんは……なんだろう。すげーんだよな。何が? 何もかもだ。すげーんだよ。説得力が。成田くんの今ヶ瀬は、1990年頃に生まれて、2020年を生きるリアルなLGBT当事者に見えた。明確に平成生まれの今ヶ瀬なんですよ。昭和生まれほど自分を卑下していなくて、ゲイである自分というアイデンティティをちょっと認めている。探偵業だって、アングラ職にしかつけなかったわけではなく、自ら好んでやっている雰囲気がある。
 だけど、人生で唯一の本気の恋愛に対してめちゃくちゃ臆病で。相手が、いつも女がいるヘテロだから余計に腰が引ける。だから本来の自分の性質(部屋の趣味とかから結構いかつい趣味してるっぽいのが見える)を捨てて、恭一が好きそうな「献身的な女」を演じるのが今ヶ瀬渉だ。成田くんは「女を演じる男」をとても繊細に演じていたと思う。恭一にはめちゃくちゃ媚びるのに、決してジェンダーレスに傾かず、性自認はたぶんがっつり男である「素の今ヶ瀬渉」を随所でチラつかせてくる。序盤のめちゃくちゃがっついてるキスシーンとか、タバコくわえて気だるく台所に立つところとか。うまいなぁと思った。

 芸術的な映像部分、よかったと思う。カメラワークの妙というか、ストレスを感じない自然な「隠し方」だったり、明るい画と暗い画の対比でうまく人物の感情を追っている感じ。繊細な表情、細かな体の演技もしっかりと捉えていて、エロなのに下品すぎない、とてもキレイな映像だった。音楽も繊細できれいでよかった。

 逆に引っかかったのは、セックスシーン。宣材を見た感じ、エロだけで売りたい作品ではないと思ったんですけど、かなりエロに力を入れていたのでちょっとびっくりしました。映像はキレイ寄りに作っているのに、音入れが過剰なせいでAVっぽさが出てしまっていたのが残念。映画館で見ると余計に、小さい音まで聞こえるぶん大げさに感じてしまうのかもしれないです。
 それと全体的に濡れ場が長尺な傾向だったので、もう少し端折っていれば大事なセリフをいくつか挟めたのではないかなと。あまりセリフで感情を明文化したくないという方針で、あえて減らしていたようにも見えたのだけど、端折りすぎていて「原作未読、かつ深読みあんまりしない」層には説明不足で、消化不良気味だったんじゃないかなと思いました。
 たぶんいろんな方が感想に書いているとは思うんですが、原作のモノローグに当たる部分がゴリゴリ削られていて表層のセリフしか言語化されないので、表情から感情を読み取るのが苦手な人は、全般的に何が起こってるかわからない可能性があります。
 後半のゲイバーのシーンは、それが悪い意味で作用していた気がしました。一目でゲイバーとわかるようにする必要があったからあの風景になったんだと思うんですが、あまりにステレオタイプなゲイソーシャル(イカニモ系)のクラブが出てきて「さすがに今ヶ瀬以外の男を好きになれるのか? 俺はゲイなのか?」と悩んだ末に決死の覚悟で行った…と解釈するには違和感がありました。さすがにもうちょっとあるでしょ。
 それと後半、時系列がゴチャついてしまっている部分があってちょっと混乱しました。いや、私の認知能力が足りなかったせいかもしれないですが…。

 全体的には、原作へのリスペクトもしっかり感じるし、実写映画のよさを活かした現実への寄せなど評価したいポイントがたくさんありました。
 大事なメッセージを残しつつも、「ご都合主義」を減らしてお仕着せのBLというファンタジーから脱却し、1つの映像作品として綺麗にまとまっていたと思います。原作未読の人にやや優しくない点が若干マイナスで、総合的には75点くらいの感触です。とりあえず、これから見たいという人は原作を併せて読んだほうが楽しめると思います。じゃないと「愛人にして」の悲壮感が全然違ってしまう気がする。

4:感想(原作ファン視点)

 映画ファンとしての感想、建前というわけじゃないんですよ。本心です。本心なんですけど、それはそれとして……

 今ヶ瀬渉って、もっと「粘着質でグロテスクな男」だと思うんですよね。

 映画版の今ヶ瀬は「片思いをこじらせながら周囲にいろいろ迷惑振りまくけど、本質はただ恭一を愛したい臆病な人間」……みたいな繊細な描かれ方をしているように感じました。もちろん、細かい演技や演出には陰湿さの片鱗みたいなものは感じたんですが、ラストの処理がどうも合わなかった。解釈違い!!!と思ってしまいました。

 そもそも私は原作時点で、今ヶ瀬のことを恭一の100倍クズだと思っていたんですよね。決死の覚悟でドブに飛び込んできた恭一がドブで溺れてるのを見ながら「やっぱりあなたにドブは似合わない」とか勝手なこと言うし、助けないでどっか行っちゃうような男。いつか今ヶ瀬は指輪をゴミ箱に捨てていって、恭一は恋の終わりを看取ることになる。そのうえ、今ヶ瀬はきっとこう言うんです。

「あなたは女を愛せるんだから、女と結婚して子供を作ったほうがいい」

 自分が恭一と共に歩めない理由を、どうしても恭一のせいにする。今ヶ瀬渉はそういうやつだ。……私は、そう思っていたんです。

 だから映画版の今ヶ瀬、仮に90年生まれと仮定したとしても、原作よりずいぶん落ち着いてるな……という感じがして、少し肩透かしを食らった気分になりました。映画の今ヶ瀬は、あのあともし恭一と再会したら、少しずつ救われていくように見えた。あの今ヶ瀬は、間違っても子供がいるべきだなんていう多様性に水を差す話はしないと思ったんです。
 ある意味、原作ラストの解釈が分かれているからこそ、原作踏襲ラストではなくてオリジナルの終わり方にしたのかもしれないとは思いましたが。 

 デリケートな話を含まざるをえない題材なので、差別だとか、世相だとか、ジェンダー論だとか、ポリコレだとか、そういうのにめちゃくちゃ配慮して作られているのはわかります。だからこそ10年間でアップデートされた価値観をしっかり反映して、ちゃんと、性的マイノリティはそこまで珍しいことじゃないという描写になっている。たまきは「相手」が女だと思い込んでいたけれど、それは男は女と付き合うのが当然みたいな価値観というよりは、恭一がバツイチで今は自分と付き合っているのだからヘテロだ、という素直な理解のように見えました。たぶん恭一のほうが囚われているだけで。

 私は全体的に、改変部分は「配慮」によるものだと感じています。だからこそ、改変の試み自体はすごく良いことだと思っている。ただ、79年生まれのめちゃくちゃ陰湿な今ヶ瀬渉も見たかったんだよな……。しいて言うなら、10年前、まだ新鮮なうちに実写化していてほしかった。多分そういう事なんだと思います。


さいごに:感想(腐女子)

 長文読んでいただきありがとうございました。

 自分の感情の行き場が見つからずにワーッと書きなぐったため、あまり人に読んでもらうことを意識していない文章で恐縮ですが、映画を咀嚼するための切っ掛けにでもなればうれしいです。

 めちゃくちゃ前置き長くなってしまって、若干尻すぼみになってますが、とりあえず最低限書きたいことは書いたと思うので、このあたりで締めようと思います。(後々、気が向いたら加筆するかもしれません。)

 最後に一言だけ。

 ここのところBL界隈でもかなり減ってきている「ローション以外のものを尻に塗る」シーン、まさか実写(しかもあの大倉忠義…)で見れるとは思わなかったので、それだけで1900円の価値があった気がしました。ありがとうオリーブオイル!

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