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【私の履歴書】なぜアートで起業したのか?28歳で独立したストーリー①

はじめまして!!

株式会社NOMALでアート事業の責任者をしています、平山美聡と申します。ずっと憧れていた(けど読む専門だった)note、今日から綴って見たいと思います。

noteで何を書こう・・・そんなにおしゃれなこと書けないしな〜と思って逡巡してましたが、30代になってから色々な人生の道を切り開こうとする女性に多く会うようになり、人とはちょっと変わってしまった私のキャリアの話をする機会も増えました。

保守的で優柔不断な私が、大手企業をアラサーで辞めていきなり友人と会社を作って4年。振り返れば色々あったアート事業の立ち上げの話とか、大手企業と超ベンチャー企業の違いとか。

32歳独身、飲み歩き大好き、お調子者だけど精神的にまだまだ弱い私の毎日の備忘録がわりにも。

色々書いていきたいと思っていますので、よろしくお願いします!!

とりあえず、今日はプロフィールを途中(大学卒業)まで書きましたので、興味ございましたらどうぞっ。


32歳の私の履歴書


私は東京都町田市出身で、大人しくて内向的な小学生時代を過ごし(とにかく運動音痴でドッジボールがトラウマだった)、その後鷗友学園女子中学・高等学校に入学しました。

当時から趣味は、絵を描くこと。絵だけは人よりも上手にかけると思ってたけど、今思えばうまさに甘えて手は抜きがちだったので別に褒められることはなかったかなぁ。

中高では目立ちたかったのか、演劇部に所属。男役としての快感に目覚め、人前で喋ることにだいぶ抵抗がなくなりました。女の園でのびのび過ごし、デザインに関わりたいと、慶應義塾大学環境情報学部を目指しました(以後SFC)

自分で言うのもなんだけど要領の良い私は受験勉強をだいぶグダグダやっていたのに、第一志望だったSFCに受かります。この時親に真っ先に電話したのに、「合格なんて嘘でしょ、無理しないで」と全く信頼してもらえなかったことは忘れません。

SFCは社会起業家を育てる風潮がすごく強くて、同期の中でも当時から意識が高い人たちはたくさんいました。一方私はアカペラサークルに入部して、女子校で遅れてた青春を取り戻す活動をしてました。

研究会にも所属したけど、全然真剣に取り組んでなかった。今ならSFCの講義がどれだけレベルが高いかわかります・・・本当にそこらによくいる大学生な生活をしていました。でも今でもSFC大好きです。

こんな感じで今まで中高大を第一志望にストレートで入ってきた私ですが、就職活動の時に初めて壁にぶち当たります。

クリエイティブな仕事がしたいと希望していたマスコミや広告代理店に全落ち。もういいや、と色々受けるも全落ち。5月くらいにはほぼ内定が出ていた優秀な同期たちの中で、私は納得のいく内定はひとつもありませんでした。自分が思う自分の能力と、他者が評価する能力にこれほど差があるとは・・・と愕然。

いま言葉にすると、それくらいのこと・・・となりますが、当時の私はそれなりに病んで、謎に小田原城にいって象とかを見て、天丼食べてました(食欲は旺盛だった)

それだけでは飽き足らず、夜行バスで鳥取砂丘へひとり旅をしたりもしました。鳥取砂丘→石見銀山あたりの渋めのルート。当時宿泊した城福寺ユースホステルというところがとってもよくて、今再訪したいな、なんて一人思っています・・・!話が逸れました。

ひとり旅で少しは気持ちが切り替わったのか、就活も終わりの8月に、本来なら留学生向けの枠だった夏採用で内定をもらったのが株式会社資生堂。

今だから言える!化粧には全く興味がなかった。だけど、業界一位の王手であること、親がとても喜んだこと、社員の人たちの雰囲気がとてもよかったことが決め手となり、入社を決めました。

この時点ではまさか6年後に会社を立ち上げてるなんて、想像もしていませんでした。

続く!



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