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くるくるあくる日ひとことくる日 #12 小説に嫌われた、文を書く資格がないと思ったこと

 僕は全く持って物書きとしては下の下の下だ。

 そもそもフィクションにしろ、エッセイにしろ書こうと思ったきっかけは小学生の頃授業で書いた短編小説が周囲に受けたこと。

 それから自発的に小説やライトノベルを読むようになって、賞金や人生の足跡を残すにはいい世界かもなんて軽い気持ちで積極的に書くようになった。不純ではあったかもしれないが、徐々に熱中し、いつしかどこか自分のプライドめいたものが芽生えて今に至る。

 一番ホットな時期は書くことよりも考えることに重きを置いていたと思う。それをアウトプットして整理する作業になっていたかもしれない。

 考えることは自分の内面と向き合うことであり、アウトプットはそれを客観的に捉えて何が自分か?あるいは何が自分にとって重要なことなのかといったことを追いかけていた。

 考えるためには材料が必要で、それはすなわち様々な本を読むこと、色んな人とコミュニケーションを取るというインプットが必要だった。

 一口にインプットとそれぞれの要素を括ってしまったが、本を読むことは内と向き合う側面が強く、コミュニケーションは外向的なため客観性を養っていたと思う。

 両方大事なのだけれど、大人になり、社会に出ると本を読むことによるインプットが徐々におざなりになっていった。

 理由は仕事をするうえで内向的な性格は、経験的に言えば余計であることが多いためだ。とりわけ会社に所属して働く場合は、自分の仕事がいいものであっても、ある一面においてはよくない点が存在するという――他人の価値観の違いによる議論が発生する。とすれば、説得や説明などの外向的なスキルを磨く機会の方が当然増えていく訳だ。その説明のために本を読むことはあっても、小説はあまり適さない。

 小説はクローズドな世界であることが強みだから、役に立たせるのが難しい。哲学的な面を他人に伝えても、「そういう意見もあるよね」で終わるのが大抵。勿論そう思われるからしょうもないなんて、切り捨てるつもりはない。

 でも、小説の持つ世界観の面白さや、内面と向き合う魅力をいつしか信じないようになっていたのはやはり間違いなかった。

 物を書くようになって十年以上。最近継続性が付いて3年ちょっと。作家というものが眩しく見えていたあの頃と比べて、今の自分はとてつもなく劣ってるようにみえる。

 継続性とか、文章の組み立てくらいは幾分うまくなってるかもしれないが、あの粗削りながらに血が詰まっていた何かが欲しくて仕方ない。

 あれが無ければ、小説を書いている意味がない。

 そしてそれを失ったのは小説を軽んじるようになって嫌われたからなんだろうなと思った。加えて、そんな自分に文を書く資格が無いとさえ思った。

「みやこくんの書く小説は神経が通っているね」

 そう言われた時期も数年前にあった。本当にうれしかった。それは大事にしていきたい。

 ただ今は確実に何かが欠けている。
 
 こんな葛藤をログとして残すことはあまりよくないかもなと思いつつ、思ったことは今は素直に書くべきな時期な気がしていて。――そんな訳で、なりふり構わず書いている次第だ。

 これからも書き続けていく。

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