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悲しむ、というスキル

昔から、怒りの扱い方が下手だ。あとから「ああ、これ怒ってもよかったんだろうな」と気づくので、生まれた怒りは行き場を失って消化不良を起こす。

いつもいつも、怒りに気づくのが遅いわけではない。自覚はしているけれど、感情に任せるのは良くないと思うがあまり、伝えるタイミングを失ったりいまいち伝わらなかったりしてしまうのだ。

夏頃から、メンタルが不具合を起こしていた。いや、いる。まあ、不安定なのはいつものことだから、わたしを知っている人なんかは「何を今更」だろう。ただ、なんというか、不具合度がかなり高い状態が続いていた。今もなお、落ち着いたとはいえない。

結果、noteの下書きが増えた。脳みそがバグを起こしているときには、お蔵入りの文章ばかり生み出してしまう。

悶々と考えていた。原因は何も今ここにあるわけではないから。そうしてひとつ思い至ったのが、わたしは悲しむのも下手なんだなあということだった。

悲しいことが起きたとき、わたしは悲しみを表現するのが下手だ。それは子どものときからで、たとえばわたしが飼っていたペットが死んでしまったとき、泣きじゃくって母に慰められている妹の声を聞きながら、ついに一度も泣けなかったこと、とか。

元担任が急死してしまったときも、同級生が亡くなってしまったときも、友達が亡くなってしまったときも、いつもいつも、わたしは通夜や葬儀の場で泣くことがなかった。

別に泣くことがすべてではない。悲しみ方は人それぞれだと思う。ただ、わたしの場合、悲しむこと自体に無意識に蓋をしつづけてきてしまったような気がする。

悲しんでいい場で、悲しまずにあたかも平気な素振りをしてしまう。葬儀のようなみんなが悲しむ場では、周りの慰め役に回ってしまう。

元担任の通夜・葬儀を終えたあと、わたしと別行動で参列していた母に、「この子、大丈夫かなと思った」と言われたことを、ふと思い出した。急な訃報だったこともあり、泣き崩れる同級生が多くいるなか、冷静なまま、ただただ慰め役でいつづけていたからだろう。

悲しみが訪れたときには、どういった表現方法であれ、きちんと悲しむことが本当は必要だったんだろう。泣く泣かないではなく。

これまでに訪れた数々の悲しみを、わたしは悲しまずにそのまま抱えてきてしまったのかもしれない。悲しんだからといってつらさがゼロになるわけではないし、完全に癒えるものばかりではないけれど、少なくとも悲しむことで手放せたものもあったのでは。

誰かに言われたこと、されたことによる悲しみも同じことで、わたしは多くの場合で悲しみに向き合わずにきてしまったように思う。落ち込みはするものの、「こんなことくらいで」と否定してしまうくせがある。

悲しい、と認めることが悲劇のヒロインを気取っているように思えて、「そんなの良くない」と遠ざけてしまうのだ。そうして本当に悲しみを振り切れるのならいいけれど、まったくもってそんなことはない。悲しみは何も言わずに心の片隅に居座って、じわじわとわたしを侵食していく。

おざなりにされた怒りや悲しみは溜まりに溜まって濃縮され、放置されてきた不満を訴えるべく、いつしか暴れはじめる。それが今になって噴出しはじめてしまったのかもしれない。

自分を無視してきたツケとでもいおうか。利子がたんまり膨らんで、首が回らなくなってきたのが、きっと今のわたしだ。

せめて今からでも、「あのときのわたし、悲しかったんだな」と思い受け入れることで、少しずつ返済できるだろうか。

幸いなのかどうなのか、わたしは過去に対する記憶力がある方だ。思い返していけば、あのことが、このことが、今に尾を引いていることにもきっと行き当たれるだろう。

笑い、怒り、悲しむ。このうち、怒ることや悲しむことは、簡単なようで難しいし、無視しているとろくなことにならないんだなあ。

誰かを目の前にして悲しみを表すのは壊滅的に下手だから、せめてまずはひとり書いてみよう。そうして少しずつ、悲しみを時差なく悲しめる自分になれたらいい。

ごめんね、昔のわたし。悲しみをないものとして扱ってしまって。そして、ごめんね、今のわたし。あのときの悲しみは、あのときのわたしが引き受けておくべきものだったよね。

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