見出し画像

不要不急と自分だけの聖域

本箱が届いた。古家具だ。横には古材で作られたデスク。相性は想像どおりで、なんかちょっと、本当にもうちょっと、ニマニマしてしまう。

「本箱」だけれど、中には本だけではなく雑貨類を入れたいと思っていた。埃の掃除が面倒くさくて日の目を浴びれなかった、お気に入りの雑貨たち。さっそく、最下段にスノードームを並べる。ああ、いい。いいな。

このnoteのアイキャッチ写真のペンギン(?)も、雑貨のうちのひとつ。結婚前に働いていた雑貨屋に入荷してきた際に「可愛い可愛い」と愛でていたら、寿退職するときに店長たちがプレゼントしてくれたのだ。もう10年前になるけれど、やっぱり可愛い。



「不要不急」を、ゲシュタルト崩壊しそうなほど見聞きしている。「自分のやってきたことが不要不急とされ、頭で理解はできるけれど心は痛んでいる」という言葉を見かけ、わたしの心も痛んだ。

最低限の衣食住が不要不急。命を守ることが、何よりも大切。きっと、そんなことは大多数の人にとってこれ以上言われなくともわかっていることで、けれども何となく気持ちが沈んでしまったりつらくなってしまったりするのは、わたしたちには「今、不要不急とされているもの」に生かされてきた部分がたくさんあるからだ。

ちなみに、「不要不急」は「重要ではなくて急ぎでもないもの」らしい。熟語としての「不要」とは意味合いが異なるんだね。ただ、字面の強さから、文字通り「不要=いらないもの」と思っている人もいるように思う。そうなると、なおさら落ち込んじゃうよね。



本箱にしまわれたスノードームもペンギンも、生命活動を維持するために重要なものではないけれど、わたしが心すこやかに生きていくためには重要で必要なものだ。

デスクに向かっている状態から視線を動かすと、彼らが目に入る。見ると気持ちが和む。

流している音楽もそうだ。好きな曲は、いつもわたしを救ってくれる。

必須じゃないけれど必要なものも、きちんと手に入れて大切にしたい。そのためにも、一生懸命仕事をしようと思う。


なお、この「必須じゃないけれど必要なもの」「心すこやかに生きていくために重要かつ必要なもの」は、当たり前のことながら人それぞれ異なる。それは家族間でも当然のこと。

わたしが理解できないものを大切で必要だと感じる人もいるわけで、その聖域を踏み荒らさないようにしたいなあ、と思う。わたしも踏み荒らされたくないから。

特に、「今、不要不急とされているもの」で、さらに「今、機会や場が失われつつあるもの」を聖域としてきた人のつらさを思う。外野の立場から、不用意に「仕方がないよね」と言いたくはない。「今はそれどころじゃないんだから」と言いたくはない。

「心すこやかに生きていくために重要かつ必要なもの」に触れられないことがつらいのは、自然な感情だ。(わたしはサウナ・岩盤浴と映画館が該当する。つらい)「もっとつらい人がいるから」「もっとがんばっている人がいるから」は一旦さておいて、つらいものはつらいって、せめて心のなかで自由に言えますように。辛抱している自分を、「偉いぞ!」と褒めたたえられますように。

家のなかのお気に入りを一つひとつ増やし、心が癒えるスポットを作っている今、そんなことを思う。


結局、これなんだよ。「感情」は誰にも侵されたくない。(「感情を出すこと」じゃなくて、「感じること」そのもの、ね)

お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。