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「合わない」を大事にする

「価値観が合う人と一緒にいたい」の、「価値観」についてぼんやり考えていた。

わたし自身にも、親しくしている人たちにも、いろいろと人間関係においてトラブルや事件が起こった最近だった。


「気が合う人とだけ仲良くしていられればいいや」という意見があるけれど、それはある意味で是で、ある意味では否だな、と思う。そして、「気の合う」も、「価値観」同様幅が広くて難しい言葉だな、とも思う。

わたしは「漂流」だとか「放浪」だとか「点々」だとかを自称している。「あのグループの卯岡さん」と見られるのが、学生時代から好ましいとは思えなかった。「あの子と仲良いよね」と言われる対象が何人か挙がる程度なら良いのだけれど、こと「グループ」になると、やっぱり今でもできる限り避けたい。

もし、属する形になるのであれば、同時に複数の場に属したい。

こう思うのは、たいていのグループは考え方がある適度似通っている人たちが集まっているからだ。「価値観が合う」「気が合う」者が集まるのだから当たり前だろう。

「え、そこはそうは思わないな」という意見は、グループ内にある多数派の意見を前にして、表に出されることは基本的にない。実際には全員の意見や価値観が一致することなんてないと思っている。理想は「わたしはこう思う」を自由に言い合えて聞き合える集団だけれど、まあ、滅多にないと言っていい。

言えばいい。と言われるかもしれないけれど、無駄な争いは好まない。そして、グループ内に異なる意見を放り込むことは、たいがい争いの火種にしかならない。「なら、離れれば?」とすらなりかねない。そんな展開を望んでいるわけではないから、あえて言わない。……となっていく。

結果、「合う部分」だけをさらけ出したグループになるから、ひとつのグループにだけ属していると、自分の考えにまでグループのカラーが影響を及ぼしてきてしまって、本心がわからなくなってしまうのではないかと思う。


「価値観が合う」「考え方が合う」人との関係は、楽だし貴重だ。同じ方向に向かっていけるし、深めてもいける。だから、その関係は関係で大切にしたい。

けれども一方で、「合う」人ばかりと付き合っていると、視野が狭くなっていくリスクがあるとも思う。「この価値観こそ正義!」みたいになりかねない。怖いことだなと思う。


年を重ねるごとに、頭は固くなっていくという。柔軟さを保持したいのであれば、自ら異物に関わっていく姿勢が必要なのではないかと思う。不快な思いをしに行く必要はない。「考え方が合わない」は、決してイコール不快ではないから。

「考え方が違うな」「価値観が合わないな」と感じるのに、話していて楽しい、という人は存在する。そうした人たちは、わたしに新しい風を吹かせてくれる。わたしの中の「正しさ」に、「?」を投げかけてくれる。

互いに「?」を投げかけて思考を一段深められる関係性が築けるのは、「価値観が合う」「気が合う」というよりも、「コミュニケーションの作法が合う」なのかもしれない。

「コミュニケーションの作法」という「価値観」が合うともいえるので、ややこしいのだけれど。

似た思考回路や価値観を持った人とばかり盛り上がっているのは、わたしにとってよくないことだなと思う。「えー、ああ、そう思うんだ?」「考えもしなかったわ、そう考える人もいるんだ」と思える人と関わる機会も大切にしたい。


「違う」のやり取りを快にできる人が、わたしは好きだ。わたしも、「違う」を不快にさせずにうまく伝えられるようになりたい。

そして、「違う」を快として受け止められる器を持ちたいと思う。「異物排除」では、成長に偏りが出すぎると思うのだ。


#エッセイ #コラム #雑記 #わたしのこと #考え方


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