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得て、失う。

その昔、告白してきてくれた男の子の誕生日が今日であることに、ふと気づいた。

残念ながら気持ちに応えられなかった彼の誕生日を知っているのは、中学校の卒業式と同じ日だったから。自ら「俺、卒業式の日が誕生日やねん」と吹聴していたのを憶えている。

告白したり、しようか迷った挙句できなかったり、誰かにされたりしたのは、思い返してみればほとんどが3月で、学生時代の“区切り”に思いを馳せてしまった。クラスが変わるだけでも何かが終わってしまう気がしていたし、進学はもっとだった。もう会えないと本気で思っていて、当たり前のように会える日は本当に終わってしまった。

あの日から遠く離れてしまった大人の3月は、3月だからといって何かが大きく終わるわけではない。区切りを迎えるのは子どもたちで、だけどまだ子どもにとっては終わりは終わりではないらしい。特に感慨もなく、それぞれの今年度を終えようとしている、ように見える。

今が変わりゆくことや終わりゆくことに感傷的になりはじめたのは、いつ頃からだったんだろう。新学期や新生活への期待感より、3月に対する感傷の方が強かった。少なくとも、3、4年生頃からはその傾向があったかもしれない。変わることは、いつだってさみしさを引き連れてやってきた。その先に楽しいことが待っているのだとしても、変化に対する恐怖感があった。

変わらないものなんてない。大人になったわたしは、受容ではなく諦めるようになった。相変わらず大歓迎にはなれない。得たものは失いたくないし、変わってほしくないと願ってしまう。変わってしまったものを嘆いて、変わらないでほしいと自分勝手に願ってしまう。

もしかしたら、変わったのはわたしかもしれないのに。失ったのは、わたしの変化が原因だったのかもしれないのに。幼い頃に感じられたものを感じられなくなったのは、そのときのわたしに子どもだから持ち得た感覚があったからだ。知識を得て、虚構と現実の区別がつくようになった今のわたしには、もうあの頃のような世界の見え方は二度と与えられない。

トトロはいつか見えなくなる。
サンタのソリの鈴の音も、聞こえなくなる。

特撮番組を見ながら、壊滅された地に住まう人たちを心配する子どもたち。わたしはもちろん、もう知っている。画面の向こうにあるものはフィクションだ。


伝えられた想いに応えられなくて胃が痛んだ感情も、伝えるのが怖すぎて感じた吐き気も、懐かしく思い出すものになった。どこかにいると思っていた“本当に理解してくれる人”は、おそらくきっといない。生まれてから死ぬまで、人は誰かといてもいなくてもひとりなのだ。

今近くにいる誰かも、わたしも、否応なく変わってゆく。変わらない部分があったとしても、寸分違わず変わらないなんてことは、きっとない。それが生きていくことで、死ぬ日まで唯一変わらないことなのだろう。

久しぶりに再会した人に、わたしはたいがい「変わらないね」といわれる。体型の変動が少なく、ノリも大して変わらないためだろう。「変わらないね」という言葉が果たして褒め言葉かどうかはさておき、そう言うときの相手は、いつもどこか安心したような表情を浮かべている。

変わらないことに、わたしたちは安心を感じるのかもしれない。どう足掻いても、変化は免れないから。得ることは同時に何かを失うことで、どうせなら得られるものに意識を向ければいいのに、わたしはどうしたって失われていくものに思いを寄せてしまうのだ。

成長も、変化も、さみしさを内包している。向かっていく先に待っているものが“終わり”であることも、感傷の原因なんだろう。

今日も終わりゆく。明日がやってくる。

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