見出し画像

「ちゃんと」の呪い

我が家の小三は、小一の頃から登校渋りの気がある。友達は好きで、先生も別に嫌いとまではいかなくて、給食も好き。ボランティアの読み聞かせが好きで図書室に通っているらしいし、昨年まで通っていた学童も好きだった。

それでも、「学校に行きたくない」とぐずり、わんわん泣いた。行ってしまえば楽しく過ごしているそうだから、ときどき休みながらも何とか通う生活を送ってきた。


そこにきたのが休校だ。「学校」がまだどんなところかもいまいちわかっていない小一の弟は行きたそうな素振りも、このまま休みでも楽しいからいっか、といった素振りも両方見せているけれど、小三の彼は「学校始まるの、めんどい……」とぼやく。

4月から休業になってしまったために、日中の課題の面倒を主に見てきた夫が、「でもまあ、わかるわ。算数、嫌やろうなあ」という。彼は算数が苦手で、数字の感覚もまだ覚束ないところがある。「わかんなーい」とあっけらかんとしていられたらいいのだろうが、彼は幼い時分より他者と自分とを比較しがちな性格だ。「俺だけわかんない」思いが、「学校、しんどい」になっているのだと思う。そして、それがようやく夫にも理解できたのだと感じた。(これまで、彼は子どもと週に1~2度しか関わらない生活を送ってきた)


「どうしてもしんどいときは、そう言ってくれたらええねんで。そしたら、ママ上手いこと学校に『今日は休みます』って言うやん」「休みたいから頭痛いって言ってるのか、ほんまに痛いのかがわからんのは、病院に行くかどうか決めやなあかんから困るんよ。あと、何を聞いても泣かれるのも困る」

そう伝えると、「休めるのか!」といった顔になった。(今までも再三伝えてきたのに)夫も、「学校でしんどかったら、保健室行くとかしたらええねん」と言う。「適当でええんや」と。

彼は「えええ……」と戸惑う。すると、会話を聞いていた弟が、横から「適当でいいじゃん!」と言う。にこにこヘラヘラそう言い放つ弟に、彼は「そんなんあかんねんで。ちゃんとしやな、あかんねん」と言う。その姿に、「あああ……」と何とも言えない苦しさを感じた。


「ちゃんとしやな、あかん」。この「ちゃんと」の呪いは、一体どこでかけられてくるものなのだろう。親が無意識にかけてしまったのか、先生なのか、はたまた自分の性格が由来しているのか。

「ちゃんとしやな、あかんねん」と言う兄に、「できませーん、って言えばいいじゃん」と返す弟。そんな彼らに、「やらなあかんとこだけちゃんとしてれば、それでええんや」と言う夫。「えー、でも……先生に怒られるもん。怒られるのは嫌やもん」と彼。「いやー、わかる。めっちゃ、わかるよ」と返した。泣けるほどわかる。そして、かわいそうだと思った。(弟は「オレは怒られても怖くないもん!」と胸を張っていた)

「ちゃんとしなきゃ」の「ちゃんと」は、漠然としているだけにタチが悪い。具体的でない分、「まだまだ全然ちゃんとできていない」「もっとちゃんとしなきゃ」と、どんどん自分を追い詰めていってしまう。そりゃ、しんどくもなるよ。学校に行きたくもなくなるよ。


「そういや、俺もよく保健室に行ってたわー。夜遅くまでゲームやってて寝不足で、眠くて」と夫。「中学とか高校とか、よくお母さんに『休むから電話しといて』って言ってたしな。『そうかあ』しか言われたことないわ。最後はお母さんもめんどくさくなって、電話すら忘れてたしな」。

父親の「適当具合」に、彼はいたく驚いたようだった。いや、わたしもその理由と義母の対応に「マジかよ」と思った。「ママも保健室には逃げ込んでたけどな……。それは心がしんどかったからやけどな」と伝える。我が実家は、学校を休むには相応の体調不良が必要だった。


わたし自身が、大人になった今も正体のない「ちゃんと」に苦しめられている。土台無理な話だから、本当にただただ自分が苦しむだけで何の意味もない「ちゃんと」だ。「そこまで肩に力入れなくても、何とかやっていけるもんやで」「何とかやっていける場所で、何とかやっていったらええんやで」。彼が「ちゃんと」にがんじがらめになって身動きが取れなくなってしまう前に、たくさん「適度でええんやで」の言葉をかけたいと思った家族団らんのひとときだった。

お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。