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悪いときほど滲み出る

10代の頃、友人が付き合っていた彼氏がモノに当たる人だった。ふだんは明るくて楽しい人だったのだけれど、「そこだけが気になるんよね」と話した友人に、「ネガティブなときの様子で、一緒にいられるかいられないかを判断するほうがいい気がする」と応えたことを覚えている。結局、どういった理由かは知らないけれど、彼女たちは最終的に別れた。



人間性が一番出るのは、非常時、特にその人にとってネガティブなことが起きたときだと思っている。外面を取り繕えないできごとが起きた際の、咄嗟の一言や行動。みんながみんなできた人間ではないから、「あーあ」な対応をしてしまうことも(わたしを含め)あるだろうけれど、少なくとも一緒にいる人の言動が許容範囲内でないと、長く一緒にいることはできない。

わたしにとっては「怒り方」が重要だ。父が地雷原のような人で、踏んだが最後怒鳴り散らして威圧してくる人だったからか、わたしは特に男性の大声が苦手だ。何なら、怒鳴っているわけではない大きな声にもビクッとしてしまう。

怒鳴られると委縮して思ったことを言えなくなってしまうのは、大人になった今も変わらない。だから、健全な関係性を築くためにもその人の怒り方を知ることがわたしにとって大切だろうと思ってきた。


怒り方さえセーフゾーンに入っていれば、残りのことは大した問題ではないとすらいえる。なお、夫は大声で怒鳴ってねじ伏せようとするタイプではない。

そんな夫は、その昔とあるハプニングが起きたときに驚くほど狼狽して、判断も行動もできなくなってしまったことがあったのだけれど、そうした見ようによっては情けない姿を見ても、わたしは幻滅しなかった。(むしろ、そんな彼を見てわたしがしゃっきりして適切に対処するという、ふだんと逆転の現象が起こったのだった。見直されたかどうかは……わからないけれど)


長く一緒にいるといろいろなことがあって、互いに「それは、どうよ」という姿も相当晒しているのだけれど、自分にとっての一線を超えさえしなければ、それ以外は「まあ、OK」とできるものだし、できる間柄が楽なのだと思う。(イラつくことは多々ある。それはまあ、仕方がない)



今は社会全体が非常時だ。たとえ自覚がなくとも、精神的にストレスがかかっている状態が続いている。余裕がなくなると、どんどん視野が狭くなる。何も取り繕わない、素の自分が表出してきてしまう。この場合の「素」は、決していい意味での「ありのまま」ではない。たいがい目立ってしまうのは、客観的に見て悪であったり、世間と大きくズレていたりすることだ。

もう何度も、「なんでだ?」と首をかしげざるを得ない発言をネット上で目にしている。でも、なんでもくそもなく、それがその人だったのだろう。意外だろうが、意外じゃなかろうが。

いいときには、自分の許容範囲も広い。いいときには、人は(演じているつもりがなくても)ある程度の社会性をうまく身に着けていられる。しかし、ネガティブとネガティブが掛け合わされると、これが途端にひっくり返る。何かを判断するとき、わたしはいつも「これだけはダメ」を重視しているのだけれど、これは人づきあいでも同じことだなあと改めて今思っている。



なお、有名人や政治家の失言について。

みんな「そういうつもりではありませんでした」「不快な思いをさせてすみません」と謝るのが常だけれど、まあそれがその人の本心なんだろうから確かに「そういうつもりではない」のだろうし、つもりじゃないからこそ「あ、この価値観は合わないわ」と判断できるのだよね。

謝ったり取り消したりしても、その発言の土台にある価値観は消えないのだ。その人が価値観を新たにしていけなければ。(新たにしていく必要性の有無は別として)


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