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小さな棘の痛みを自覚する

「がんばってね、母親の務めだよ」

こんな些細なひとことが、チクっと心を刺した。

嫌味な言い方ではなかった。単純に励ましてくれたのだということはわかっている。けれども、数ヶ月前に言われたこの言葉は、まだわたしの心に残り、チクチクと小さな痛みを与え続けている。

きっと、「親の務め」だと言われていれば、トゲは残らなかっただろう。「母親の」という言葉は、じわじわと心に染み込ませられていく洗脳に近いものだと思った。


CMや雑誌、政治家や芸能人の発する言葉が炎上をもたらすことが多々ある。何ヶ月か前に炎上した歌詞や、さまざまなメーカーのCMやキャッチコピー。最近は政治家の発言がTwitterで反感をもって捉えられているのを見かけた。

「そんなに目くじらを立てなくても」「粗探しをしなくても」「自分ごとに捉えて怒らなくても」

何かが炎上すると、こうした「まあ、落ち着けよ」発言もよく見られる。確かに、炎上したときに見られる個々の発言の中には、罵詈雑言に近いものも多くある。だけど、わたしは「違和感を抱きました」「不快になりました」という感情を自覚することは大切だと思う。言い方は考えるとして。


これは、別に女や母親だけのことではない。男であっても、「これくらい飲み込もうよ」とされている言葉はたくさんあるだろう。

気にすることではないかもしれない。けれども、幾度となく繰り返される言葉は、無意識のうちに刷り込まれ、考え方や行動に影響を及ぼすと思うのだ。

「母親」という言葉の中に行動規範を圧縮させられて、その呪いに自らかかってしまっている人が今でもたくさんいるように。

「こう感じた!傷ついた!」と喚けと言いたいわけではない。ただ、「あ、これは嫌だったな」という感情は自分の中で認めよう。「気にしなくていいのにな」と自分で自分の感情を否定することはやめよう。

たとえ、他人から「そんな小さなことで?」と思われるような言葉でも、「わたしは嫌だった」を大切にすることは、その後の自分の行動にも関わってくるから。

「そんなの、言葉の綾じゃん」と言われるかもしれない。もしかしたら、本当に相手には悪気がなかったかもしれないし、ひょっとしたら単なる被害妄想かもしれない。

だから、瞬間的に発火して、相手に食ってかかるのはリスキーだとは思う。相手に不快感を伝えるなら、冷静になってからの方がいいだろうと思っている。

だけど、小さな違和感をひとつひとつ自覚しておくことは、言葉に無意識に縛られずに生きていくために、とても大切なことだと思う。


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