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その“やさしさ”は本当にやさしいの?

やさしさは、時にむずかしい。

大学時代、非行少年・少女と関わるボランティアをしていた。はじめての活動を迎えるにあたり、先輩から「絶対に連絡先を交換しないように」と厳命される。「関わりは、あくまでもボランティア活動中のみにしなきゃダメ」と口を酸っぱくして言われた。

彼ら彼女らに「助けて」と頼られたとき、ただの学生であるわたしたちには、何もできないからだ。

更生途中の彼ら彼女らは、精神的に不安定な子も多いと聞いた。支えてくれる家族がいる子ばかりでもない。家出を繰り返したり、夜中に行く場所を求めて彷徨ったりする子は少なくなく、更生施設に舞い戻ることになる子も多いらしい。

なかには、非行に至るまでに、人から裏切られ続けた子もいる。その結果、周りを裏切り続けてしまうようになった子も少なくない。

人ときちんと信頼関係を結ぶ経験が浅いために、安易に垂らした蜘蛛の糸は、彼らにとって、こちらの想像以上にこころの拠り所になる可能性がある。だからこそ、中途半端なやさしさを差し出すことは、彼らを深く傷つけてしまう。そんな話だった。


「引き受けられないやさしさは、ただの自己満足」。そのことが、当時19歳だったわたしに刻み込まれた。


本当にその人にとってのやさしさになりうるのか。差し出そうとしているやさしさを、途中で投げ出すことはないか。

あれからずっと、わたしはそのことを考え続けている。わたしの自己満足になってやいないか。一旦引き受けておいて、途中で糸を手放すような、中途半端で自分勝手なものになってやいないか。ぐるぐるぐるぐる、考えている。


「なんとなくやさしくしたかった」なんていうやさしさは、時に傷つけるよりも残酷だ。

実際に体験したことがあるけれど、突然突き放したり手を離したりするくらいなら、はじめからそんなやさしさはいらなかった。

やさしさに触れてはじめて、こころのやわらかい部分を開ける人はいる。だからこそ、気まぐれのやさしさは、開いた弱いところを深くえぐってしまう。開かないままでいた方がマシだった、なんてことになってしまうのだ。

また、相手やケースによっては、あえて耳が痛いことを言う方が“やさしさ”になることだって少なくない。やさしさは、簡単なものではないのだ。


そのやさしさは、相手の立場に立った上のもの? 自分に酔いしれるために振りまこうとしてはいない?

自問を続けている。



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