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その感情と思考を錆びつかせるな

先日、参加しているWasei Salonで開催されたディベートイベントに参加した。テーマは「お金」か「やりがい」。

個人の本来の価値観はさておき、参加したい側に参加して、その立場から論じ反駁する。参加したのは2度目だったのだけれど、今回も非常に有意義な時間だった。

わたしは「やりがい」チームを選んだ。チームでのディスカッション中、「お金に関してモノを言うことを、意地汚いことのように感じてしまう部分があるな」と改めて気づく。反対に、「やりがいのほうが大切」だと語る人は、さも心が清らかなように感じたり。ただ、やりがいタイプも、度が過ぎると「いい子ちゃん」というか、外面がいいだけの胡散臭さを感じることもあるのでは、と思うのだけれど。



今日は、別にお金ややりがいについて改めて書こうと思ったのではない。そうではなくて、「大人」として「人」としての「正しいあり方」の怖さだ。


「自分の機嫌は自分で取れ」と言われる。わたし自身、「そうだそうだ」と思う側だし、自身で気を付けねばと思っているひとりだ。大人たるもの、怒りに身を任せて他人に八つ当たりするなんて、よくない。それは人間として未熟なことだ。自分の不機嫌は、自分でコントロールしなければ。そう、思っている。

ただ、この思考も行き過ぎはよくないとひしひしと感じている。常に冷静に、穏やかに、まるで悟りきった人のようにあることが、果たして正しいことなのか。それはそれで、思考を放棄していることになりやしないのだろうか。

「怒り」はパワーだ。怒りから何かを生み出す人がいることを知っている。怒りが何かを変えることがあることだって、わたしは(たぶん、多くの人が)知っているのではないか。怒りにより国が動いたことだって、歴史上に何度もある。

怒りを原動力にして、その怒りを過度に押し込めることなく露わにすることは、「怒っていませんよ」と涼しい顔をしているよりも、ひょっとすると人間らしいことなのではないか。


ただ、何となく「お金」について語ることがネガティブに捉えられることがあるように、「怒り」や「不満」といった負の感情とされるものを表明することも、またネガティブに捉えられがちだと感じている。まるで、冷静な人たちよりも劣っているかのように語られたり。

でも、深く深く探ってみたら、達観している「風」を装っている人よりも、怒りを表明している人のほうが考えて考えて考え抜いている、なんてこともあると思うのだ。

達観しているわけでも、大人なわけでも、人間的に優れた行為なわけでもない。ただの事なかれ主義に陥っているだけ。それは、その場だけは平穏無事に済むかもしれないけれど、長期的に見たときに、自分の首を気配なく絞めていく細い糸になりやしないだろうか。



考えることは、痛みを伴う。たいがいのことには、答えなんかない。

不必要に物事を複雑にすることはないけれど、いつ何時も「答えはシンプル」だなんて、そんなことはない。

「トロッコ問題」のように、どちらを選んでも正解で、どちらを選んでも間違いで、第3の答えがあるのかどうかもわからず、あっても見つけ出すまでに時間制限がきてしまう、そんなことだってたくさんある。

考えて決めることは、怖い。間違うかもしれないから。間違ったとき、その責任を自分で引き受けなければならないから。

誰かが決めたことに従うのは、楽だ。何かが起きたときには、すべてをその「誰か」のせいにして逃げられるから。(ただ、逃げられるのは責任からだけだ。何かが起きてしまった結果、生じる痛みは負わなければならないことのほうが多いだろう)


どちらにせよ痛みのリスクがあるのであれば、わたしは考えることによる痛みを負いたい。「よくわかんない」「知識がない」、そんなことは専門家でなければ当然で、専門家にだって「わからない」事態はいつだって起きうるのだから。

だから、「わかんないから」を考えないことへの免罪符にしたくはない。わかる範囲で考えて、できれば「わかる」範囲を広げる努力をしたい。そして、最後には自分で選び、決めたい。


その結果、生まれたのが「怒り」であれば、その怒りは自分にとって正しいものだ。八つ当たりをするような、未熟な「怒り」ではないものだ。

「怒りは良くない」を自分のなかに置いてしまうと、条件反射的に怒りを自ら殺してしまうようになる。気づいてしまったら苦しくなるから、見て見ぬふりをしていたくなってしまう。喜びや嬉しさを感じる心も鈍化させられるように、怒りや悲しみも同じことだ。働かさなければ、錆びてしまう。死んでしまう。


昨年、こんなnoteを書いている。

悲しいときには悲しんで、怒れるときには怒らなきゃ。

何も、その感情を常に外に出せというわけではない。だけど、少なくとも自分だけは、ネガティブとされる感情を否定せずに「だよね、悲しいよね」「いや、めっちゃ腹立つよね」と受け入れなきゃ。その感情を「ネガティブはダメだから」となかったものにしちゃダメなんだ。そうでなければ、一見正しそうな「穏やかさ」に流れていってしまう。流されて行きつく先は、一体どこなのだろう。



人と揉めたくはない。嫌な思いはしたくない。だから、何となく周りに合わせて、ニコニコ穏やかにハッピーに過ごしていたい。

それもまた選択のひとつだけれど、それを自分で「選択」したのかどうかが、大切なのだと思う。

使わなきゃ、モノは劣化する。考えなければ、感じなければ、わたし自身も劣化してしまう。

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