そこそこ、それなり、ある程度の「先」
ピアノの即興演奏が得意だ。正確には、「だった」かもしれない。今、家にはピアノがないから。
わたしが習っていたのはヤマハで、ヤマハには資格として「グレード試験」というものがあった。即興演奏は、試験内容のひとつでもある。
試験としての即興演奏は、その場で見せられた楽譜を定められた時間見て、制限時間を終えたタイミングで「はい、弾いてください」と言われていきなり弾くことだ。初見とも呼ばれていた。
つっかえずに、運指を間違えずに、強弱記号に忠実に弾く。これが、わたしは試験項目の中で比較的得意だった。
もちろん、即興演奏に練習を重ねた曲のような完成度はない。「それなりに」「ある程度」完成したものだ。(音大生、プロの即興演奏レベルはまた違うだろうけれど)
一方、妹は即興演奏が苦手だった。しかし、彼女は曲の完成度を高めるのが得意で、わたしはずっと、密かにコンプレックスを抱いていた。
わたしには、極める力が欠けている。「そこそこ」「それなりに」「ある程度」にはこなせるけれど、深め、磨き、至上のものにする力が圧倒的に足りない。そう、今でも心のどこかで思い続けている。
たとえば、今のこのnoteの文章だってそうだ。きっと、「それなり」には書けている、と思う。書けていてほしいとも思う。
だけど、辿り着きたい文章にまで磨けているかと問われれば、答えはNOだ。足りないなあ、と思う。書きたい内容は書けていても、書きたい空気が書けていない、というか。
子どもの頃から積み重ねてきたネガティブのせいで、「そこそこ」止まりになってしまうのではないかという思いがよぎる。あなたは突き抜けられないんだよ。そう、わたしのなかのわたしが囁く。
突き抜けられる何かを「才能」と呼ぶのなら、わたしはとうに才能のなさを突きつけられてきた。一気にブーストして羽ばたいていった人を見ながら、「ああ」と思ったことは何度もある。ブーストした人が努力していない、とかではなくて。
短い時間で器用に「そこそこ」できるより、はじめに時間がかかっても深く深く潜れる力がほしかった。小器用さなんて、「それなりに」でしか役に立たないのだから。
ただ、と思う。子どもの頃のわたしは、「その先」に潜ることが怖かっただけなのではないか、と。
突き進めば突き進むほど、見えない終わりが理解できるようになる。できるようになればなるほど、「できる」すごさが具体的にわかるようになっていく。それは同時に、より一層自分の「できない」を自ら突きつけることになる。それは「才能」のひとことに逃げたくなるくらい、痛みを伴うことだ。
幼いわたしは、その痛みから逃げていたのだろう。妹だけではなく、当時いっしょに習っていた友達には「音楽センスの塊」の子がいた。わたしはきっと、本当の距離を知るのが怖かった。だから小器用に、ただ真面目に練習をしていた。深めるのではなく、上滑りしているだけのような反復練習を。
今のわたしはどうだろうか。痛みを伴う深みに潜ろうとできているだろうか。
「できない」ことに向き合い続けなければ、その先には行けない。そして、決して終わりはないのだ。
そこそこで留まりたくないのなら、向き合うしかないんだよ。小さなわたしを叱咤して、わたしは少しずつでも、先に行きたい。
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