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察した感情の真偽

生粋のネガティブだったんだなあ、と思った日から、わたしは何も変われていない。


人には“察する力”がある。人の雰囲気や言葉の端々や表情から、相手の想いや感情を読み取る力だ。人によって持ち得る度合いは違うけれど、大多数の人に大なり小なり備わっているものだと思う。大半が持ち得ているからこそ、持ち得ない人は人間関係でわかりやすくトラブルになってしまう。

ただ、いくら察することができるといったって、それはただの予想でしかない。察し間違いをすることだってあるわけで、それが元でトラブルになってしまうこともあるだろう。


わたしは、この察する力が悪いことにばかり敏感なタイプだ。ほんの小さな変化で、誰かのネガティブに気づくことが多い。そうして、感情のベクトルがわたしに向いていると考えられるとき、それをさらに悪い方に振り切ってしまいがちだ。あながち的外れではないこともあるけれど、事実よりも悪く想像してしまうことも多いのだろうと思っている。


高校生の頃、大好きな友人と些細なことでトラブルになった。きっかけは小さなことだったのに、意思の疎通がうまくやれなくて、だんだんと疎遠になってしまった。彼女の小さな態度ひとつひとつが、わたしをつらくさせた。「嫌われたんだろうな」と思ってしまい、それ以上踏み込めなくなってしまった。

……というのは、わたしサイドからの話。

実際には、彼女は途中から何もわたしに対して思っていなかったらしい。勇気を振り絞って卒業前にふたりで話す機会を設けたのだけれど、向かい合ったマクドナルドで、彼女は「え?何、それをそんなに気にしてたの?」と目をぱちくりさせた。拍子抜けしたというか、「え、深刻に思っていたのはわたしだけだったの?」と少しだけ切なく思いもしたことを憶えている。

わたしが気にしていた彼女の態度の理由は、「特に何もなかったけど」だった。別にわたしに向けられていたわけではない表情や雰囲気を、わたしは悪い方に捉えていただけだったのだ。


察することができているどころか、何もないものを勝手に察して“ある”ことにしていただけ。なんと間抜けで、なんと自意識過剰なんだろう。


ただ、この悪癖は、それから15年近くが経つ今でも直っていない。というより、これは性格のひとつだから、ちょっとやそっとでは消し去れないのだろう。


友達が悩みを抱えていたり、ストレスでパンクしそうだったり、輪に馴染めず楽しくなさそうだったり、そうしたネガを察しやすいのは役に立つことも多い。

けれども、あえて自分がつらくなる方にばかり想像力を働かせてしまう察し間違いは、どうにかならないものかなあ……と思っている。

まあ、本当に察し“間違い”かどうかは、相手に確かめないとわからないのだけれどね。そして、本人に確かめることができないチキンなわたしは、変わらず悶々と不安を抱えるか、見て見ぬ振りをするしかないのだろう。


#エッセイ #コラム #わたしのこと #HSP #メンタル #人間関係

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