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【短編小説】その温度を知る由もない

 昔の私から手紙が届いた。

 実家から送られてきた荷物の中に、その手紙は入れられていた。米やら缶詰やらタマネギやらりんごやらがテトリスのように隙間なく詰め込まれたダンボールの一番上に、母親が書いたメモ書きを添えられて、薄ブルーの封筒は私を見上げていた。

 メモ書きには見慣れた柳の葉のような細い筆跡で、『依田先生から届いたので、同封します』と書かれていた。


 ――依田先生。 


声に出さずに、名前を呟く。

 久しぶりに言葉にした名前に、下腹部がきゅっと握りしめられる。


 ――先生。依田先生。


 そっと封筒を手に取る。ガラス細工を扱うように、そっとメモ書きを剥がした。

 封筒を手に持ったまま立ち上がると、はさみを引き出しから取り出す。慎重に、端をまっすぐに切る。

 中身はわかっている。昔の私からの手紙が入っているのだ。封筒の中には、一回り小さな見覚えのある封筒が入っていた。色とりどりの小さい花が散りばめられた、お気に入りだった封筒。確か、百均で買った封筒だ。その封筒と一緒に、白い便箋が一枚入れられていた。

薄グリーンの封筒に重ね、白い便箋を開く。そこには、きっちりした書道のお手本のような字が並んでいた。


『ご無沙汰しています。お元気ですか。成人おめでとうございます。きっと素敵な女性になっていることでしょうね。お約束していたお手紙を送ります。

十五歳の頃の自分を振り返ってみる、いい機会にしてみてくださいね。いつかまた、素敵な大人になった笠原さんに会える機会があれば、とても嬉しく思います。「今」を精一杯楽しんで、充実した生活を送ってください。』

**

 中三のとき、新任で私のクラスの担任になった依田先生は、サバサバした物言いが気持ちいい、格好いい先生だった。

 なぜ新任なのに、いきなり受験生のクラス担任をやらされることになったのかはわからない。はじめは、保護者から「受験指導は大丈夫なのか」という問い合わせが多く寄せられていたらしいけれど、家庭訪問が終わる頃までには、そういった不安感は消えていったように思う。

 依田先生は生徒の目から見ても「できる」先生に見えた。落ち着いた物腰から、保護者にも「しっかりした先生だ」と思われたんだろう。それとも、「私たちがバックアップしながら進路指導には当たりますので」と説明した学年主任の力が大きかったんだろうか。


 保護者の評判はさておき、依田先生は一気に生徒の好意を勝ち取った。そもそも若い先生が少ない学校だったということもあるのだろうけど、依田先生はそれに加えてルックスも良いという武器を持っていた。

 男子も女子も、依田先生に好意を抱いていただろうと思う。授業に茶々を入れる男子に対して無言でスルーする姿も、
「ちょ、先生、スルーっすか」
という笑いに繋がり、それに対して含み笑いで返す先生は、茶目っ気があって素敵だった。


 いつしか、私の目はいつも依田先生を追っていた。先生が笑うと、胸の辺りにあたたかいものを感じた。それと同時に、理由もなく突然泣きたくなる衝動に駆られることもあった。


 賑やかなクラスメートの子たちが、先生に気軽に軽口を叩けることが羨ましかった。校則通りに制服を着て、黒髪を肩の辺りまで垂らしていた私は、何の個性もなく、きっと卒業したら先生の記憶からは押し流されて忘れ去られてしまうような生徒だっただろう。


 極端に地味でもなく、かといって目立つ生徒でもない。真っ先に埋没するだろう、平凡が制服を着たような存在が、当時の私だった。

**

 依田先生は、基本的にいつでもしっかりしていた。今の私と、当時の依田先生との年齢差が、三歳程度しかないことに驚く。三年後、私が依田先生のような大人になれるかと考えると、即座に「無理」という言葉が浮かぶ。


 ただ、依田先生は「完全無欠」な先生ではなかった。時折、生徒が口を揃えてつっこまざるを得ないような言い間違いをしたり、プリントの文字を打ち間違ったりしていた。


 その隙も、また依田先生の魅力だった。先生のミスにつっこむときのクラスメートたちは、みんなどこか楽しげだった。人間味、というものを感じていたのかもしれない。

 あるとき、先生は生徒の一人を、異なる名前で呼んだ。他の生徒と間違えたわけではない。先生の口から飛び出した名前は、クラスメートの中にはいないものだった。そのことで、教室は一気にざわついた。


「え、先生、もしかして、今言い間違った名前ってー?」
 敏感な女子たちが一気に甲高い声を出す。先生は、珍しく慌てた様子で、
「違う違う! そういうものじゃないから!」
と言い繕ったけれど、柄にもなく耳まで赤くなった姿から、言い間違えた名前が、十中八九、先生の恋人の名前であろうことが想像できた。


「ヒューヒュー!」
「え、小野沢に似てるってこと?」
 好き勝手に盛り上がる教室を、困ったような表情で見回して、依田先生は
「はいっ! 次の問いにいきます!」
とわざとらしく普段より大きな声を出した。
 このとき、教室の中で、たぶん、私だけが笑えていなかっただろうと思う。


**


 思えば長い間、私は自分自身の感情を理解していなかった。いや、理解しないようにしていただけなのかもしれない。
 はっきりと自覚したのは、当時親しかった椎野との会話中だった。


「なんか、最近、妙にため息ついていること多くない?」


 椎野の問いかけに、私は面食らって、
「え? 多い?」
と返した。本当に、まったく自覚していなかった。
「多い多い。何、何か悩みごと? あ、もしや、すきな人ができたとか」
「えっ」

 思わず言葉に詰まる。椎野も、「えっ」と返す。そうして、
「うそ。当たっちゃった?」
と小さい声でつけ足した。


 ――すきな人。


 言葉にされるまで、私は本当に少しも自覚をしていなかった。このときも、まだ自分の感情をきちんと理解し切れていなかった。


「……いや、自分でも、まだよくわかってない、かも」
 絞り出すように、言葉にする。
「えー、どういうこと? ラブかライクかわからないってこと?」
「……うーん。そうじゃなくて」



 「すきな人」という枠組みに、依田先生が入るということ自体、私は考えてもみなかったのだ。


「恋愛対象には入らない人だって、思ってた、から?」
「えー、どういうこと、それ」
 椎野は首を傾げた。
「……年が、離れているからさ」
「あー、そういうこと。えー、年の差なんて全然関係ないでしょ。何、塾の先生とか?」
「あー、まあ、そこは内緒で」
「えー、誰にも言わないし、協力してあげるのにー」


 椎野は唇をちょっと尖らせてみせた。椎野と私は、同じ塾に通っていたのだ。
「いや、まだ自分の気持ちすらよくわかってないからさ」
「え、でも、『ひょっとしたら』っていうことがあったとか、ないの? 嫉妬するとか」
「……あ、」
「何」


 依田先生が、恋人と思われる人の名前を口に出してしまったときのことを思い出す。消えてしまいたくなるほどの、いたたまれなさがぶり返す。


「……その人、付き合ってる人がいるかもしれなくて」
「うわ」
「で、そのことを知ったとき、辛かった、かも」
「あー……」


 椎野が顔を歪める。私がそのまま黙っていると、椎野は黙ったまま私の髪の毛をくしゃくしゃと乱した。


「何するの!」
「いや、励まそうと思って」
 苦笑いする椎野を見ていると、私も思わず吹き出してしまった。
「そんな雑な励まし方があるかー!」


 言い返しながらお返しとばかり椎野の髪をわしゃわしゃと乱れさせると、椎野は
「やめてやめて。だって、ほかに何て言えばいいかわからなかったんだもん!」
と笑い転げながら身をよじった。


 このとき、私の依田先生への感情に、名前がついた。
 私は、依田先生に、「恋」をしていたのだと。
 私の、初恋だった。


**


 自分の気持ちを自覚したあとも、何も変わることはなかった。当たり前だ。私は生徒の中の一人で、さらに目立つわけでもないタイプだったのだから。


 先生と生徒という関係性の中でも、私は依田先生と特に親しくなれるわけでもなく、ただただ埋没した生徒のまま、日々が過ぎていった。


 ただ、自覚してしまったがために、私の想像の中で、依田先生は私にやさしい表情を向けたり、髪を指で梳いたり、頬に触れたり、手を握ったりした。想像の中の依田先生の手はひんやりとしていて心地良く、私はうっとりと瞳を閉じた。


 ――でも、実際は、先生の手の持つ温度なんて、私は知ることができないのだ。


 板書をする先生の手から目が離せず、教科書を持つ手に見とれた。端から見たら、熱心な生徒に見えただろう。先生が話す言葉は、ひとつも聞き漏らさないように丁寧に耳の中に収め、表情のひとつひとつを、写真を撮るように記憶に留めた。


 進路指導のときの緊張感は、呼吸がおかしくなるんじゃないかというほどだった。普段、先生と一対一で話す機会のほとんどない私にとって、進路指導の時間は先生と直接会話を交わせる貴重な時間だった。妙に硬い声になったり、声が裏返ってしまったりしたこともある。


「そんなに緊張しなくても、今の成績なら問題ないから、大丈夫だよ」


 そう言われたこともあった。先生の目には、受験のプレッシャーに負けそうな生徒に見えていたのだろう。


 しあわせな時間だった。けれど、苦しい時間だった。
 どうあがいても手に入れられないものを欲することは、とても苦しい。


 海に沈んでいきながら、海面に映る光に手を伸ばしているようだ。光と酸素を求めながら、息苦しさを増す体を抱えて、どんどん深みに沈んでいく。

 いつか、息苦しさが体の中で破裂して、私は死んでしまうのではないか。そう、思っていた。


「ねー、せんせー、わからない問題があるんだけどー」
 かわいらしい声で、依田先生の肩を叩いて話しかけているクラスメートが目に入る。ああ、羨ましいな、と思う。嫉妬ではない。嫉妬にすらならない。無邪気に、気軽に、明るく話しかけられることが、心底羨ましかった。


 私は、それ以上依田先生が目に入らないように、机に突っ伏す。
 それなのに、耳はしっかりと先生の声を捉えていて、私を離してはくれない。先生の声が、私の下腹部を握りしめて、苦しみから解き放ってはくれない。
 机に突っ伏したまま、私はぎゅっと強く目を閉じる。そうすればすべてが遮断できるとでもいうように。



 先生。先生。依田先生。私はおかしいのかもしれません。


**

 卒業が近づいたある日のホームルームで、依田先生が
「今日は、先生から提案があります」
と言った。
 教室の中は適度にざわついて、
「えー、何なにー?」
と数人が声を上げる。私は、その様子をぼんやりと感じながら、ただ依田先生のことだけを見つめていた。


「自分に、手紙を書いてもらおうと思っています」


 先生の言葉に、みんなが一斉にきょとんとした空気が教室内に漂う。
「二十歳の、未来の自分に。書いた手紙は先生が預かって、みんなが二十歳のときに、みんなの元へ送ろうと思っています」
「えー、何それ、タイムカプセル的な?」
「五年後とか想像つかねえー」
 わいわい、ガヤガヤ。クラスメートたちの声が遠いところから聞こえる。


 私は、「じゃあ、一週間後を目安に書いてきてもらおうかな。各自すきなレターセットを使ってもらって構わないけど、家にレターセットがない人は、先生が持ってきたものから選んで持ち帰ってください」と話をまとめる依田先生の声を聞きながら、書こうと思う内容を頭に浮かべていた。


**


 当時のことを思い出しながら、五年前の自分が書いた手紙を読み返す。


 ――五年後の私へ。今、すきな男の人がいますか? 男の人を、すきになれていますか?


**

 男性と、一度だけ付き合ったことがある。高校二年生の終わり頃のことだ。久しぶりにきた、椎野からのメールがきっかけだった。


『ねー、依田ちゃん、結婚するらしいよー。有志でプレゼントあげよっかっていう話が出ているらしいんだけど、参加する?』


 ――ああ。そうか。依田先生、結婚するんだ。


 一瞬、全身に力が入って、直後に脱力した感覚を、今でも思い出せる。


『うん、もちろん。詳細わかったら連絡してくれる?』
 返信を打ち終えて送信ボタンを押してから、息を止めていたことに気づく。はああ、と大きく息を吐くと、三角座りをして膝に額を押し当てた。
 何も考えることができなかった。ただただ、「依田先生」と声にならない声で呟き続ける。


 ――依田先生。先生。依田先生。


 間宮くんと付き合いはじめたのは、それから間もない頃のことだ。
 相変わらず、目立たなくて埋没していた私に、間宮くんは「そういうところが、いいなと思って」と言ってくれた。うれしかった。すきになれたら、と思って、私は間宮くんの告白を受け入れたのだ。


 同じ吹奏楽部員だった間宮くんは、色白の肌に、栗色の髪色をしていた。
「地毛なんだよ。色素が元から薄いんだ」
と笑う顔は笑顔なのにどこか困っているようで、理由もなく、ただ「いいな」と思えた。
 落ち着きのある、大人びた人だった。穏やかでやさしい、春の日差しが似合う人だった。

 それなのに、そんなやさしい人を、私は、私の身勝手で傷つけてしまった。別れを切り出したときの彼の表情を、今でも私は忘れることができない。


「気になっていたんだ。本当は、俺のほかに、すきな人がいたんじゃないかって」


 間宮くんが言ったその言葉に、私は咄嗟に嘘をつくことができなかった。僅かな間と私の様子から、間宮くんは、自分の推測が正しかったことに気づいてしまった。
「……そうか」
 間宮くんは、笑いたいけれど笑えないような表情を浮かべた。唇が、かすかに震えているように見えたことは、きっと気のせいではなかった。


 私は、ただその場に突っ立って、間宮くんの顔を見つめることしかできなかった。目を逸らしたいのに逸らせなくて、馬鹿みたいに真正面から彼の顔を見ていた。


「ありがとう」


 間宮くんの言葉に、私は掠れた声で、
「どうして」
と呟いた。
「すきになれるかもしれないって思ってくれたから、付き合ってくれたのかもしれないって思ったから」
 無言で頷く。


 ――あなたをすきになれたら、どんなに良かっただろう。


「……ありがとう」
 私が震える声で伝えると、間宮くんは、泣き笑いの表情を、いつもの困っているような笑顔に変えて、髪を少し掻いた。


 ――すきになってくれたこと、うれしかったんだよ。本当に、間宮くんをすきになれたらうれしいって思ったんだよ。


 それでも、どうすることもできなかった。
 髪を搔いていた骨張った手を握ることすら、私は間宮くんにしてあげることができなかったのだから。


**


「何、読んでるの?」


 背後からふわりと抱きしめられて、我に返る。
「びっくりしたあ」
「だって、何だかずーっとぼんやりしてるから。あたしが帰ってきたことにも気づいてなかったでしょ」


 わたしを抱きしめていた両手を離して、夏香はわざとらしく、拗ねたように唇を尖らして目を細めた。


「何にそんなに夢中になってたの?」
「中学のときの担任が、五年前に自分が書いた手紙を送ってきてくれたんだよ」
「えー、何それ。おもしろそう」
「タイムカプセルみたいなものだよ。読み返すの、小っ恥ずかしいものだよね」
「ああ、中三とか下手したら痛々しいよね。黒歴史どんぴしゃみたいな」
「私はそこまでじゃなかったから」


 夏香は笑いながら「ほんとに?」と言い、私の髪を指先で梳く。その手はそのまま頬にあてがわれ、チュッと軽い音を立てるキスをした。夏香の手のひらは、しっとりとしていて、あたたかい。触れているところから、夏香の体温と私の体温が混じり合って、同じくらいの温度になっていく。


「でも、あたし、中学時代は辛かったかもしれない」
 夏香が呟く。その目は笑っていなくて、私の心は夏香の心に寄り添っていく。中学時代の夏香を知っているような気持ちになる。


 ――そうだね。


 夏香の右頬に手を添える。夏香は頬に添えられた私の手の甲に自分の手を重ね、瞳に笑みを戻す。


「でも、いいんだ。あのときがあったから、今、優奈といられるんだし」
「うれしいこと言ってくれるね。お礼にこうしてやるっ」


 照れを隠すように、私は夏香に抱きつく。泣きそうな顔を見られないように、しっかりと抱きしめる。ふわりとシトラスオレンジの香りが広がった。
「苦しい苦しいっ! ギブギブっ!」
 夏香が笑いながら叫ぶ。両手をほどいて離れると、やさしい表情を浮かべた夏香と目が合った。


 ――依田先生。依田朋美先生。私は、先生のことが、大好きでした。




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