【日常スケッチ】6月9日午後、新宿から初台、のち新宿
久しぶりに化粧をし、久しぶりにストッキングを履き、久しぶりに電車に乗った。電車の走行音が心地いい。換気のために開けられた窓から吹き込む風を浴びていると、水に入れられた棒寒天のように心身がほぐれていくのを感じた。ほぐれる感覚を味わってはじめて、凝り固まっていた部分の存在に気づける。化粧で毛穴の呼吸を邪魔し、夏場のストッキングによる蒸し暑さはそれはもう酷い。にもかかわらず、えも言われぬ開放感だった。
早めに家を出たこともあり、行きは新宿駅から25分ほど歩いて現地へと向かう。街を歩く人の数が、前回渋谷に出たときと比べると格段に多い。ラッシュ時の混雑がどの程度なのかはわからないけれど、すでにこのときの甲州街道には日常が戻っているとすら感じた。それくらい、ふつうに人がいた。都内では、場所によって人出が八割程度まで戻ってきていると告げていたニュースを思い出す。
早々と現地に着き、場所を確認したのちに近隣にあった喫茶店に入る。マスク姿の店員さんが出迎えてくれた。ランチタイムを少しばかり過ぎたこぢんまりとした店内には、客が数組。汗ばんだ身体を、クーラーとお冷が内外から冷やしてくれた。
オーダーしたエビピラフが、またわたしをほぐしていく。ぷりぷりしたエビの弾力に、シャキッとした食感が残ったピーマンと玉ねぎ。良い塩梅の塩味をいつになく美味しいと感じたのは、久しぶりに汗をかいたからかもしれない。
食後、アイスコーヒーを飲みながら時間まで仕事をする。1時間もないくらいだったのだけれど、集中できたおかげで思った以上に捗り、達成感を味わった。3月以降、家でばかり仕事をしてきたけれど、やっぱりたまには外でも仕事をしたいものだなあとあらためて思う。
取材先は飲食店だった。駅や街こそ一見ふつうに見えてしまったけれど、まだまだ「ふつう」は戻ってきていない。今はまだ堪えどきなのだと、取材先で聴く話からも感じられた。わたし自身、仕事における影響をまだ実感している。プライベートもだ。なんとなくまだ不安で、遊びで外に出る予定は立てられていない。岩盤浴にも行けていない。「いつ」は宙ぶらりんになっていて、今ひとつ輪郭を捉えられないままでいる。
手探りで進むしかない状況下がつづく。最近話をした人たちは皆、今できる最善を尽くしていた。持てる選択肢から何かを選んでいる。それが積極的な選択であるにしろ、選ばざるを得ない状況下での選択にしろ。わたしの知らない多くの人も同じだろう。選んだ結果が出勤である人もいるだろうし、在宅仕事の人もいるだろうし、子どもを自主休校させて自宅で勉強を見ている人もいるのだ。
選べないのはつらい。正確にいうと、選べないと思っている状態は、とてもとてもつらい。選べない状態に陥ることがあるのは事実なのだけれど、「選べない」と思ってしまったときに、本当に選べなくなるのだと思う。選べないのではなく、選ぶことを捨ててしまった、ともいえる。
選べないかもしれない状況下に置かれたとしても、それでもわたしは選びたい。選べるものを探して、隅っこにある細い道しか見つからなかったとしても、その道を選ぶか選ばないかを選びたい。選んだと思えるよう、過ごしていきたいと強く思う。
誰かや何かのせいにするのが、嫌なのだ。誰かや何かのせいにするほうが、かえってしんどくなることがあると感じているからなのだと思う。苦しみより、恨みつらみのほうがしんどいし、長い目で見ても耐えられない。
「行き着く先が同じだとしても、やるだけやったほうがマシだと思うんですよ」「自分で決めて動くから苦しいし、だからこそ楽しみがあるんです」。最近耳にした言葉たちを思い返す。自己啓発書なんかで見聞きする言葉に似ているかもしれないけれど、どれもこれも強くてまぶしい。やれることをやっている自負のある人たちの言葉だったからだろう。
帰り道は、迷わず乗り換えルートを選んだ。早く帰ったほうが空いているだろうし、と誰にも訊かれないのに理由をつける。一駅だけ乗った地下鉄は換気のために窓が開けられていて、耳を刺すようなけたたましい音を立てて走った。降りたった新宿駅はやっぱりふつうを感じさせる人混みで、けれども地下街の店先には短縮営業を告げる貼り紙が目立っていた。帰宅ラッシュがくる前に、と足早に乗り換え先のホームへと向かう。日はまだ明るい。外に出ていない間に、すっかり短くなった夜は、もうすぐまた昼を短くしにかかるらしい。
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