「べき論」が世界を滅ぼす
「かくあるべき論」が苦手だ。
古参のファンだとか、業界のベテラン(や、先住民)だとか、そういった「元からいる」人たちのなかには、対象物を愛するあまり熱量が高い人がよくみられる。
ただ「好き」を表した熱ならば、はたから見ていて不快感を抱くことはない。むしろ、ひとつのものにこだわりを持って熱を注ぐ姿は格好いいと思う。わたしにはない熱量だからだ。(あったとしても、わたしは熱量をそのまま出すのが不得手だ)
しかし、そうした人たちから、「こうあるべき」と語る人が現れる。わたしは、この「かくあるべき」が苦手なのだ。
「こうだったんだよ」であれば、「そうなんだ」と受け止められる人も多いのではないかと思う。しかし、「かくあるべき」論者は、「これが!唯一絶対の!解です!」とか、「こっちの方が優れている、上だ」といった言葉を投げかける。
結果として、その手の人たちが世界を狭いものにしてしまう。
外に開いていかなければ新しい受け手やファンは増えていかない。そのためには柔らかさが必要で、「んー、ちょっと違うんだよなあ」という違和感を飲み込んだ方がいいこともあるだろう。
どのようなものも、続いていくなかで変化が訪れる。成長であるか退化であるかはさまざまだけれど、変化を受け入れられないものは、結局その多くが衰退の道を辿っているのではないだろうか。
旧来の強固な意見・価値観を前にすると、新参者の多くは「めんどくさ」と感じて、背を向けてしまう。そうして守られた狭い世界の行く先はどこだろう。そんな風に思う。
とはいえ、わたし自身は変化が苦手だから、わたしが先住民の立場の場合、「いやいや待って、何それおかしい」とわたわたすることもある。
けれども、「それは間違ってるよ」と言わないようにしたいと思う。理解できない変化ならば、あえて近づかないようにして、新しい変化を静観していたい。(それでいて、自分は自分を貫いておけばいい。受け入れられるなら受け入れたらいい)
その人が、「良い」と思ってやっていることを頭ごなしに否定する権利を、わたしは持っていない。もしも親しくなれたなら、「前はこうだったんだよ」と話せばいい。
「ようこそ、この世界へ」という想いを抱いて接したい。これからどんどん年を重ねていくなかで、より一層意識しておきたいなあと思う。
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