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心が感じたことは、確かにそこにあるのだから

「AくんやBくんにな、オレぜったいバカにされたと思う」

小三の子どもが言った。子どもは背が低い。特別大きいわけでもない小一の弟とほぼ変わらないくらいの背丈だ。何度か「チビって言われた」と報告を受けたこともある。「バカにされた」と感じたことの背景には、そうした彼の見た目が関係していたのかもしれない、と思う。軽んじて見られやすい、というか。

「先生に言うって言ったらな、バカにしてないって言われたわ」

そう、彼は続けた。彼らに対して明確に「嫌だ」と伝えたのかは、結局要領を得ない返事しかもらえなかったから、わからない。

「ママも話は聞けるけど、ママにはAくんやBくんがどんな子かわからんから、ほんまに嫌なんやったら先生に相談してみたらええよ」

「うん」

「先生に言うタイミングがつかめないんやったら、連絡帳に『話したいことがあると言ってるので聞いてやってください』って書くから言ってな」

「うん」

「自分でどうしても言えないんやったら、そんときはママやパパが力にもなるよ。あと、先生に言っても何も状況が変わらんときもな」

「うん」

「嫌やからって、Aくんたちをぶん殴るわけにはいかんからな。言葉でどうにもならんねやったら、大人の力を借りるんやで」

「うん」

わたしはAくんやBくんの性格もわからなければ、彼との関係性も知らない。個人面談で「ふだん仲良くしている子」に名前があがっていたから、決して不仲ではないのだとは思う。「バカにされた」は彼の捉え方で、AくんBくんにはバカにしたつもりは本当にないのかもしれない。遊びの延長線上で「いじっている」程度の気持ちなのかもしれない。ついでに言うと、そう言っている子ども自身が、「バカにされた」言動をされた前、彼らに対して何もしていないとも言い切れないのだ。何せ、わたしはその場に居合わせていないのだから。

「〇〇(子ども)が、何も気にしないでいられるんやったら、それはそれでええねんで。でも、しんどいな、嫌やなって思うのも、それもそれでええんよ。他の子が『しょうもな』って思うようなことでも、〇〇が嫌なんやったら、それは嫌なことやの。相手は嫌やと伝えられたことは止めやなあかんねんからね」

「うん」

「〇〇の心が〇〇にとっての正解やねんからね。相手が『バカにしてない』って言っても、〇〇が嫌なんやったら、その気持ちが正解なんやで。それは逆も同じことやけど。『嫌だ』って言われたことは、したあかんねよ」

わかったのかわかっていないのか、子どもは味噌汁を飲みながらうなずいた。


痛みや苦しみの感じ方は、人それぞれ違う。正直、「そんなことで!?」と思うことで大騒ぎしたり、「先生に言うもん!」と言ったりする子は昔からいたし、今もいるのだろうな、と思う。でも、その人ではない外野の人間が「そんなことでー?」と言うのは、やっぱり違う。だって、目の前の相手は痛いって言ってるんだもの。しんどいって言ってるんだもの。それは紛れもなくひとつの「本当」だ。たとえ、わたしの立場から見て「本当」ではなかったとしても。

必死な思いで、親に「あのね」と声に出したことがある。もともと、助けを求めたり頼ったりするのがうまくはないわたしだ。本当に文字通り、そのときのわたしは「必死」だった。でも、親はその「あのね」をスルーした。親に自覚があったかどうかはわからないけれど、少なくともわたしは「あ、受け止めようとしてもらえなかった」と思った。あの瞬間の、すーっとシャッターが閉まっていく感覚が忘れられない。

心を開くのは、弱みを露わにするのは、傷つくかもしれないリスクを負うことだ。個人差はあれど、勇気がいることだと思っている。だからこそ、助けを求めて伸ばした手を取ってもらえなかったら、もう二度と求められなくなる。少なくとも、その相手には。下手したら、その他の人たちにも。(だって、恐怖が上乗せされるから)

君の「嫌だ」「つらい」は、君だけのものだよ。ささやかなことだったとしても、わたしは差し伸ばされた手をちゃんと取って、「痛かったんだね」とうなずける親でありたいと思うよ。痛いのも、しんどいのも、恥ずべきことではないし、格好悪いことでもないんだよ。だから、ゆくゆくは君たちも、誰かに痛みを明かされたときには「つらかったなあ」と言える人間になってくれたらうれしい。自分の尺度で「しょうもな」と判断せずに、「あなたは痛かったんだね」と受け止められる人間であってほしい。


小三。男児社会も、なかなかに大変さが増してきたようだ。女であるわたしにはわからないことも多いけれど、「話だけは聞けるから」を繰り返し伝えつづけたいと思っている。

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