見出し画像

越したことはない

自分の体験や価値観を絶対視している言葉を見かけると、うぐぐ、と思う。確かにその通りかもしれないけれど、世の中に「絶対」はないよなあと思っているから。

「お金がある方がいい」
「心が豊かなことが1番」
「勉強ができた方がいい」
「勉強ではない“頭の良さ”が大切」
「夫婦仲をよくするにはこうすればいい」
「仕事への向き合い方はこうすべき」
「子育てはこうしなくちゃ」

……エトセトラ、エトセトラ。

今はSNSユーザーであれば、嫌でも誰かの主義主張が目に入る。どの意見も、その人にとって「正」だから、その言葉には力が宿っていて、強い。自分の芯が固すぎる人は、何かのはずみ(論破されるとか)でぽきりと折れてしまうかもしれないし、弱すぎる人は、何かにつけて誰かの意見に影響されて疲れてしまうのではないかと思う。……まあ、ならば見ないようにすればいいというのも一意見だろうけれど。

とはいったものの、わたしはあまりこうした意見に揺らがない。特に自分自身の生き方に関しては、「そーですね〜」と思いながらスルーできる。だって、わたしはあなたじゃないから。

人からどう見えるかをを気にしがちな面もあるのに、この点だけは影響されない。何でなのだろう。別に自分の生き方に自信があるわけでもないんだけどな。……まあ、それはさておき。


そもそも、人生において、大抵のことは「越したことはない」だと思うのだ。お金はあるに越したことはないし、夫婦関係だっていいに越したことはない。子どもの成績だっていいに越したことはない。何なら、運動だってできることに越したことはないわけだし。

どれもこれも、「越したことはない」けれど、「必要不可欠」ではない。むしろ、すべてを手に入れることの方が不可能だ。いや、すべてなんて端からいらない人だっているはずだと思う。

「越したことはないよねえ」というスタンスでいられると、少し楽になれる気がする。持ち得ないものに対して、いちいち心を揺らさずに済むから。

他人の「こうすべき」という言葉に影響されてしまう人は、「そうだねえ。そうあるに越したことはないよねえ」と心の中で呟いてみたら楽になるんじゃないかな、と思う。確かにそうあるに越したことはないけれど、それが自分にとっての正解だとは限らないのだから。なお、わたしのこの考え方だって、「他人の”べき”は気にしないに”越したことはない”」だけであって、あなたにとっての正論だとは限らないのだ。

お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。