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「恥ずかしいよ」に潰される欲

土曜参観の帰り道。一年生はいつも通り集団で下校し、親は我が子とは別行動で帰ったり、集団下校の後方について帰ったりしていた。

わたしは次男とともに長男のグループにくっついて歩いた。急に走りだす次男をたしなめたり、長男と参観について話したり。そんななか、ふいに、長男が「手、つなご?」と言った。

「え、つなぐの?」
「うん」

周りには彼の同級生たちが歩いている。ほー、長男はこの状況で手を母親とつなぐことに対し、まだ何も感じないのかあ。そんなことを思いながら、左手を差し出した。

「もう○歳なんだから恥ずかしいよ」

時折、耳にする言葉だ。「お兄ちゃんなんだから」「小学生だから」など、年齢以外のものが理由に当てはめられることもある。わたしも小学五年生頃に母親に言われた。

この「恥ずかしいよ」には、外部で子どもが恥ずかしい思いをしないよう、先回りして指摘してあげたいという気遣いが含まれているのかもしれない。たとえば発言者が親の場合、我が子が笑い者にされるのを避けたいのは自然な感情だ。いじめられる種を取り除いてあげようという気持ちから、「恥ずかしいよ」と言う親もいるのだろうと思う。

しつけとしての「恥ずかしいよ」は存在する。食事のマナーや社会常識は、やはり年相応のものを身につけさせてあげねば、と思う。

ただ、「甘えたい」という気持ちから出る行動や、趣味嗜好といったパーソナルな部分に関しては、「恥ずかしいよ」という言葉をかけたくはないな、と思った。

とはいえ、たとえば息子が中高生になっても手をつなぎたいと言っていたら、それはわたしが躊躇するだろう。そんなことが(ないだろうけれど)もし起こり得たとして、そのときは「(わたしが)つなぎたくないなあ」と伝えたい、と思う。あなたが恥ずかしくなくても、こちらは恥ずかしいから嫌だというのはわたしの自由だと思うから。

「恥ずかしいよ」と言うとき、その「恥ずかしい」の正体が相手のことを思いやった体を装った言い手の恥ずかしさであるのであれば、ねじ曲げて伝えるのはなんだか嫌だ。「わたしなら恥ずかしいけど、あなたは平気なんだね」と思っていたい。誰かに迷惑をかけるものでないのなら、行動も趣味嗜好も自由なのだから。

次男はベタベタの甘えん坊で、夫にも長男にも実父にも「大丈夫なのか……」と呆れられる始末。わたしも「なぜなのか……」と感じるほどのママっ子なのだけれど、これも「恥ずかしいよ」とは言いたくない。冗談で「赤ちゃんみたいだなあ」と本人と笑い合うことはあるけれど、家の中でならばまだまだベタベタした甘えを許容できる年齢だ。

「恥ずかしいよ」は、子どもの欲求を削いでしまう刃のような言葉だと思う。「はたからどう見られるか」を気にするタイプであれば尚更だ。安易に口に出さないようにしたいなあ、と長男と手をつなぎながらあらためて思った。

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