見出し画像

明日のために蓋を閉じよ

昨日、学校へ課題を引き取りに行った。その予定を耳にしていた小一次男が、家を出る前にぐずってしまった。どうやら、自分も一緒に行けるものと思っていたらしい。「せんせいの顔を見たかった」と泣く彼に、胸が塞がる。「そうだよね」と寄り添うことしかできなかった。(彼はまだ一度も学校に行っていない。担任とは一度電話で話したきりである)

学校の廊下には、「新入・進級おめでとう」と色紙で彩られた模造紙が飾られたままだった。それらを目にしたとたん、また胸がぐっと塞がる。ぐらりと傾きそうな心を、意識的にしゃんと整えた。胸が塞がるというより、胸にある蓋がずれて、中身が溢れ出してしまいそうになった、といったほうが近い。そうして、わたしは慌てて蓋を閉めたのだ。「仕方ないんだから」を力にして。


六歳の彼が、どれだけ入学を楽しみにしていたのかは知る由もない。何だかんだで今の生活も楽しんでいるから、これまで殊更気にかけることはなかった。それでも、その胸の内では「学校」や「ランドセル」や「先生」、新しい友達や学童などに期待(と不安)を膨らませていたのだろう。

一度きりの一年生・六歳の四月、そして五月に本来であれば得られたはずの機会は、もう二度と戻ってはこない。「たかが二ヶ月ズレるだけでしょ」「大変なのは授業面」。大人はそう思うかもしれないけれど、子どもにとっての二ヶ月は大きい。そして、影響が及ぼされるのは授業だけではないのだと思う。経験から得られるものは、幼ければ幼いほど大きいものだと思うから。

行事だってそうだ。「学校のメインは行事ではない」という言葉を見かけて、まあそれはそうなのだけれども、だけど楽しみにしている子どもにとっては、行事がなくなるのは悲しいことだとも思った。(もちろん行事が嫌な子だっているだろうけれども)小一の次男、小三の長男、彼らのかけがえのないこの一年はどんなものになるのだろう。そんなことを、やっぱりふとした瞬間に思ってしまう。

それでも、ふだんはあまり真正面から考えないようにしているのだ。だって、思い悩んだところで何かを変えられるわけではないのだから。だけど、だからといって何も感じないわけではないのだ。そのことを、ぐらりと揺らいだことで改めて自覚した。

慌てて蓋を閉じたから、また目の前のことをこなし対処する生活を続ける。だいじょうぶ、何とかなる。そうやって、子どもの前でだけはどんと構えて、エールを送れる親でありたい。そうやって明日を過ごすために、今はあえて、蓋をするのだ。

お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。