手放しの「ありがとう」は危ない
ありがたいは、「有難い」と書く。「ある」ことは当たり前ではない。「ありがたいなあ」と思う感情を持つことは、慢心しないためにも必要で、大切なことだと思っている。
そして、初心を思い出し、冷静な気持ちを保つためにも、「ありがたい」は有効な感情だと思う。たとえば、わたしの場合、息子ふたりを授かって、彼らが元気に育ってくれていることは、「ありがたい」ことだ。当たり前に思ってしまいがちだけれど、決して当たり前ではないことに、ときに自覚的でありたいと思っている。……そうでないと、わたしはなかなかひどい性格をしている人間でして。(苦笑)
ただ、この「ありがたい」も、気をつけなければならないものだと思う。
「本当ですね!ありがとうございます!」「その通りですね。いつも役に立つものをありがとうございます」
こうした手放しの「ありがたさ」を見ると、なんだか背筋がぞわっとする。そして、「怖いな」と思う。その言葉がお世辞であれ、本音であれ、どちらだとしても。そして、言われている相手が立派な人であっても、よくわからない人であっても。
手放しの「ありがたい」は、一歩間違うと宗教信者になる。信仰を否定はしないけれど、わたしが宗教を怖いなと感じてしまう理由は、自分の頭で考える力を奪われてしまうリスクが高いと思うからだ。
それは、ときに罪を犯すリスクにまでつながる。ちょっと事情は違うけれど、日大のアメフト部員のように。(やってしまったあとに「とんでもないことをしてしまった」と我に返ったらしいので、原動力が「ありがたい」ではなくても、思考力が低下していたのは事実なのではないかと思う)
手放しや打算の「ありがたい」は、何とも気持ち悪い。薄っぺらいなあとも感じる。思考力や判断力を使う手間や労力を省いてくれた「ありがたさ」なんて、わたしは感じたくもないし、感じてもらいたくもない。
ひょいひょいほいほい「ありがたい」としてしまう人ほど、身を翻すのも早いというのはわたしの持論(と実体験)だから、信頼性という意味でも、そうした人ってどうなのだろうなあと感じている。
こうして気ままに書いているnoteを読んで、「気づかせてもらいました、ありがとうございます!」とただ言われてしまうより、同意・異論含めて何かを感じたり考えてもらえたなら、そちらの方が嬉しいし、それこそ「ありがたい」と思う。
わたしは「こうした方がいいよ」とも「こうあるべきだ」とも言いたいわけではなく、あくまでも「わたしはこう思っている」と書いているだけで、答えを与えてありがたがられたいわけではないからだ。
頭は使わなければ退化する。思考力は、考えることである程度鍛えられるものだと思う。自分で考えて何らかの答えを出しながら進められることは、武器のひとつだ。大人も子どもも、これからさらに必要になるスキルだ。差し出された答えをありがたく受け入れ続けるだけでは、どんどん後退していってしまうのではないかな。
少なくとも、わたしは手放しで「ありがたい」と思いたくはない。ひとつの意見や価値観に触れたら、その機会をありがたく思って、自分が考えるきっかけにしようと思っている。
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