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見えるもの・見えぬものへの配慮

「健常者はエレベーターに乗るな!」

改札前にあるエレベーターの扉が開いた瞬間、高齢女性の怒号が聞こえた。次いで、わたしの前にいたおじいさんが振り返り、「うるせえ!」と叫び返す。今朝の出来事だ。

ふたりの間に何があったのかはわからないけれど、朝から嫌な気持ちになった。

エレベーター乗り場を横目に見ながらエスカレーターに乗ったけれど、エレベーターに待ちができていたわけではなかったし、降りてきた人たちがぎゅうぎゅうに押し込まれていた様子もなかった。単におばあさんの虫の居所が悪かったのか、よほど「健常者」に悪感情を抱いているかのどちらかだったんだろう。

対するおじいさんは奥さんらしき女性を連れていた。女性は無反応だったけれど、おじいさんはおばあさんに負けじと言い返し、そのままおばあさんの怒鳴り声を背に浴びながら立ち去っていく。歳は、おそらくおばあさんより若い。だからといって、「乗るな」と怒鳴られなければならない筋合いはなかっただろう。

個人的に、エレベーターは極力必要な人が乗れるようにしたいと思う。ベビーカーを使っていた頃、いくら待っても乗れないためにエスカレーターを使ったことが何度もあるから。

ただ、だからといって、「乗るな」と怒鳴るのはいかがなものなのか。というか、わたしは見ず知らずの他人に怒鳴り散らせる人の神経が、そもそも理解できないのだけれど。

まず何をもって「健常者」とするのかという疑問もあるけれど、誰かをぱっと見て判断する怖さを感じた。ヘルプマークを付けていても、自らの障害や病気を信じてもらえず、つらい思いをしたという話を見聞きしたこともある。

なんというか、わたしたちは“見える”ものに重きを置きすぎではないだろうか。そうして、“見えぬ”ものを知らず知らず害しているのかもしれない。


見えぬものはわかりづらい。だからこそ、ほんの少しの想像力を働かせたいし、何かで配慮してもらいたいのであれば、怒鳴り散らすのではなくお願いすればいい。

我が物顔で振る舞うのは、どんな人であれ損をするだけのように思える。

「乗るな!」と叫んだおばあさんは、それで何かが発散できたのだろうか。


先日は、イベント会場で多目的トイレに長蛇の列ができていて、それにぶつぶつ文句を言っている車椅子を押している人を見かけた。(ご本人ではなく)

結局、係員がやってきたあと、その人は最前列に移動させてもらえていたのだけれど。これも、「譲る」「配慮する」「控える」難しさを感じた出来事だった。


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