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去るもの追えず

「あたし、来るもの拒まず、去るもの追わずなんよね」

と言ったのは、高校時代に出会い仲良くなった友達だった。その会話からしばらく経ったあと、彼女とわたしは一年半ほど疎遠になる。きっかけは、今となってみると些細なことにも感じられるのだけれど、その当時のわたしにとっては重大で、だけど彼女にとっては何てことはないものだった。むしろ、その温度差こそが一時的にでも疎遠にならざるを得なかった理由だったのだろう。

わたしも、割と来るものを拒まない方だ。むしろ、軽率に人を好きになってしまいがちだ。けれども、去るもの追わず、ではない。追いはしないから、傍目には来るもの拒まず去るもの追わずに見えるかもしれない。しかし、実際には追わないのではなく、追えない。

「あー、去られたんだろうなあ」と感じると、そのまま自分からは距離を縮めに行かなくなる。連絡も取れなくなる。寂しいなあ悲しいなあと思いきり落ち込みながら、それでも何もできない。もしかすると、ある日突然友達に手のひら返しをされた子ども時代の経験が影響を及ぼしているのかもしれない。

いじめらしいいじめに遭ったとは思わないようにしてきたけれど、「いじめだった。つらかった」と思ってよかったんじゃないかな、と今になって思えるできことがある。珍しくも何ともない話だ。それでも、わたしはその痛みを真正面から受け止められずに、「しょうもないことするよね」と自分に言い聞かせ、「これくらい、大したことなんかないじゃん」と思うようにしてきた。けれども、実際にうまく受け流せてはいなかったのだろう。

とはいえ、そもそも仕方がないのだ。気持ちが離れていく人を引き留めることはおそらくできないし、引き留めようとして迷惑がられたり嫌われたりするのも怖いから。嫌な気持ちにさせたくないと思っているのは本当のことだけれど、実はそれは建前に過ぎなくて、要するに自分がこれ以上傷つきたくないだけ。傷の上塗りになるかもしれないと思うと、平気なそぶりをして離れていくのを見ている方が、まだ楽なような気がした。



「来るもの拒まず、去るもの追わずなんよね」と言った彼女はというと、強がりでも何でもなく本当に発言の通りだったようで、実際いつも人付き合いがさっぱりしていた。誰かに執着しないその感じが軽やかで羨ましくて、だけどその対象が自分だと考えると、少し物足りなさも感じていた。疎遠になっていた間もわたしはひとり堂々巡りをしながら苦しんでいたのだけれど、彼女は発言通りなるようになるスタンスに見え、一方通行だなあ、片想いのようだなあと思っていたのだ。

卒業間近、ようやく関係性が戻ったときに、その想像が勘違いではなかったことを知った。彼女は、「疎遠になるならなるで、しょうがないかなと思っていた」と涼しい顔で言った。結局、浮いたり沈んだりもがいたりしていたのはやっぱりわたしだけだったのだとわかり、脱力したのだった。彼女はそんなわたしを見て、「考えすぎやねん」と笑った。

そんな彼女にとって、それでもわたしは「どうでもいい相手」ではなかったらしい。「いや、めっちゃ好きやねんけど、離れられるならしゃあないなと思って」と言った彼女の「好き」とわたしの「好き」とは大きく違っていて、恋愛じゃなくても「好き」は人によってこんなに全然違うものなのかと思ったのだった。そして、卒業前に関係性を戻したいと行動に移した自分の勇気に、「よくがんばった」と思えた。「追った」経験は、この一度きりだ。



何人もの人と出会って、親しくなったり離れたりを繰り返してきた。何か険悪になる決定的なできごとがなくても、それぞれの生活や価値観の変化で、近づいたり離れたりは繰り返される。

螺旋階段のようにまた近づくこともあれば、二度と交わらない方向にお互いが進んでいくこともある。良くも悪くも人は変わるものなのだから、当たり前のことだ。そうした変化を「そういうものだよね」と受け入れられるようになった一方、突然一方的に距離を置かれるのは、やっぱり今も慣れられない。彼女のように、「しょうがないよね」とさらっと受け止めることはできない。それなのに、怖さを超えて手を伸ばすこともできない。ただ、糸が千切れていくのを見つめたまま、痛みが薄れていくのを待っているだけだ。

好きになればなるほど、切れるときの痛みは大きい。つらくなる日がくるかもしれないことをわかっているのに、それでもわたしは軽率に人を好きになる。

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