「気の持ちよう」が「気」を潰す
「おねえちゃんは、いやなことがあると、すぐに熱が出たりおなかいたくなったりしてズルい」
小学生の頃、妹に言われた。四年生の頃のわたしは、下がらない微熱で頻繁に休んでいたのだけれど、あるとき、かかりつけだった小児科医に「精神的なものからきてるんですよ。病気じゃないですね」と言われていた。それから、微熱を出しても母は風邪をひいたときのようにはやさしくならなかったし、むしろ発破をかけるようになった。冒頭の言葉は、わたしが六年生の頃に言われたものだ。
「病気じゃない」という医師の言葉が、ずっと心の片隅に残っている。確かに病気ではなかったんだろう。だけど、これもこれで病気だったといってもいいのでは、とも思っている。
事実、わたしの微熱は「気の持ちよう」という扱いになってしまった。「もっと図太くならなきゃ」「そんなことでしんどくなってたら、この先大変だよ」さまざまな「変わらなきゃ」「進まなきゃ」がわたしを覆った。
「がんばりすぎてるのかもよ、止まったら?」とか、「ひと休みしなよ」と、周りの大人は誰も言わなかった。「もっともっと」に急き立てられるようにして、わたしは「このままじゃダメなんだ」と体を引きずるようにして学校へ通った。
実際に、これは自分で思うよりも無理をして動いていたらしく、数年後にさらに悪化して表に出てくることになる。
躊躇っている、不安に揺れている、そんな背中を押すことは大切だし、意味のあることだとは思う。長男には思い切りがないから、親が少しだけ力を加えてあげることは、彼のためにもなるのだろう。
だけど、そこに見え隠れしている「もう、いっぱいいっぱいなんだよ」を、見落とさないように気をつけていたいとも思う。子どもは親を落胆させないよう、無理をしてしまうことがあるのだということを、忘れないでいたい。
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