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かさぶたを引き剥がす

悪癖も美点も、ある程度パターン化されていると感じる。「考えた結果、こう動いた」のではなく、「反射的にこう感じてしまい、ついこう動いてしまう」みたいな。美点については、何も言うことはない。そのまますくすく育ってくれたらいいなと思うくらいだ。

しかし、悪癖はそうはいかない。「悪癖だ」と自覚していたらなおさらだ。どうにかして少しでも良くなりたい、改善したい、何なら自分を変えたいと思うこともあるけれど、いかんせん簡単には変わらない。できあがったパターンは骨の髄まで染みついて本能に近いものにまでなっていて、思考で簡単に太刀打ちできるものではないからだ。


三つ子の魂百までとはよくいったものだと思う。パターンを作り上げてきたのは自分の過去だ。ひとつのできごとにより作られた部分もあれば、長期に渡り培われてきたものもある。多くの場合、材料となった過去は沈殿していて、日の目を見ない。何なら、自分自身で意識もしていない。

ただ、「この欠点の原因はどこにあるんだ」と掘り下げて掘り下げて掘り下げていくと、「おそらくこれだ」と原点となるものを見つけることは不可能ではない。そして、悪癖や欠点の根本にあるものは、悲しさや苦しみを伴うできごとであることが少なくないのではないかと思っている。そして、そのできごとをもたらしたのは、自分以外の誰かや何かであることが多いのでは、と。


最近、自分のなかで「あー、原因はこいつだー」と気付いたことがあった。やっぱりその原因は、当時のわたしにとって「わたし以外のもの」によりもたらされたものだった。自分でも思いもしなかったことが、今に至るまで根深く影響を与えていることを知って、どうしたものかと思った。だって、今さらその人やできごとのせいにはできないのだ。してみたところで、何も変えられないのだから。

自分でも気付けていなかったことが、トラウマとして今の自分にとってのマイナス要因になっている。気付いたところで、じゃあこれからどうしたらいいんだろうと立ちすくむ。だって、これまでどうしたって変えられなかったのは、トラウマだったからなのだ。要するに、怖いから動けないのだ。

ただ、わかりきっているのは、今さら「あなたのせいだ」と言ってみたところでどうしようもないのと同じく、「過去のせいだ」としていても何も変えられず、苦しみ続けるしかないこと。記憶を紐解いて、「このときのこれが原因だ」と気付いて受け入れること自体、どうにも過去に責任を押し付けて今の自分を逃がそうとしているように捉えてしまう節がある。今さら変えられない過去にすべてをなすりつけて、「だからしょうがない」と正当化しようとしてるんじゃないのか。それは自分と向き合うのではなく、逃げの手段でしかないのではないか。言い訳しているに過ぎないのではないか。

……と思いつつも、その一方で「根本に向き合わなければ、結局またダメになるんだろう」とも気付いている。すべてを変えることはできずとも、少しでも歪みを正してシャンと立って進みたいのなら、半端に治してしまった傷を見据えて、もう一度治さないといけないのかもしれない。

最近、怖くて仕方がないことに飛び込んだ。うまくいくかはわからない。荒療治かもしれないな、と思っている。でも、飛び込んでみたら案外怖くはないかもしれない。怖かったのは過去のあのときだけで、実は怖くはないものだったのかもしれない。どちらなのかを知ることで、新たに見えるものもあるかもしれない。胃痛と吐き気とを伴いながらのダイブなのだけれど、さてどうなることかなあ。

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