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庭先BBQへの羨望、驚く妻

近所の戸建てに住む家族は、時々ガレージスペースを利用してBBQを楽しんでいる。最近わたしと夫が買い物帰りに車で通りかかったときも、恐らくその晩にやるのであろうBBQの用意を一家の父親が進めていた。

「またBBQやるんかな」
「せやろな」
「ええよな。家の前でBBQとか、気軽にできて」

「ええよな」と反応した夫に、正直驚いた。

「え、『ええよな』とか思うんや」
「え、よくない? 自分の家やと炭の後処理も庭使えるし、楽やん」
「準備と後片付けの楽さを取るなら、BBQ付きのグランピングが楽やで。前母子で行ったときやったけど」
「そっかー」
「でも、ほんまにそういう暮らしをしたいんやったら、叶えられるように動かな実現せえへんでな」
「せやなあ」

子どもが産まれてこれまで、夫は長らく家族に主体的に関わってはこなかった。わたしと子どもたち+夫のような関係性で、そのしんどさに耐えかねたわたしがSOSを伝えても、彼はそのスタイルを変えようとはしない。彼が育った家庭とわたしが育った家庭は違う。家族でどこかに行く、何かをする、同じ時間を過ごすことが「家庭」なのは、あくまでもわたしのイメージであって、彼にとっては違うんだなあと気付き心に落とし込んでいく8、9年間だった。

だから、そんな夫が「庭先でやる家族BBQ」を「ええよな」と感じるだなんて、露ほども思わなかったのだ。


今年、結婚して10年を迎えた。よくもまあ、10年も続いたものだと思う。すべてを知らないにせよ、大荒れに荒れていた時期の存在を知っている母や妹からは「よかったなー」と連絡がきた。妹からは「もう無理かと思っとったわ」と言われた。うん、そうだよね。途中から、わたしは「無理になったら、そのときはそのとき」と開き直った。そして、その「そのときはそのとき」をあろうことか義母と義姉が後押ししてくれたことを境に、わたしはずいぶんと楽になったと思う。

自分ひとりとしてどう生きたいのかは、自分勝手になれれば自分ひとりでいくらでも実現できる。しかし、「わたしとあなた」という夫婦単位でどう過ごしていきたいのか、子どもたちを加えた「家族」でどんな時間を作っていきたいのかは、ひとりだけで叶うものではない。なるがまま、流れに身を任すままでいいならば、いい。でも、「こうしたい」「こんな風に過ごすのが理想」というビジョンがあるのなら、それは共有してもらわないとわからないし、叶えるために力を貸すこともできないよ、と思った(し、似たようなことを言った)。

「ほんまに、庭先BBQをやるような暮らしが理想なら、実現できそうな場所に移り住まな無理よな。もうちょっと郊外に出るとかしやな、ご予算的にも無理やし」
「せやな」
「どんな風に暮らしていきたいんか、何か願望があるんやったら話してくれたらええのに」

うん、と夫は言う。まあ、別にぼんやりした「ええなー」程度なら別にいいのだけれど、それでも指をくわえて羨ましがっているくらいなら、何らかしらの形で叶えられる方法を考えたほうがハッピーな気がするな、と妻は思うわけです。

ほしがっているだけじゃ、手に入らないんだよ。そして、何がほしいのかは、伝えてくれなきゃ察知なんてできないんだよ。付き合い始めて14年、結婚して10年経つけれど、努力なしに互いのことを完全にわかりあえる日なんて、きっとこないのだから。

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