見出し画像

ホップステップを飛ばしてジャンプ

いろいろ考えはじめたら、だんだんと深みにはまり、何が何だかわからなくなってしまった。

それでも考えることは止められず、加えて「いやいや動かねば」なんて思うものだから、気づけば自分のしっぽを追いかけまわしてぐるぐるその場で回る変化ゼロ状態に陥ってしまった。



子どもの頃は、もっと反射的に生きていたのになあ、なんて思う。動物的、というか。

衝動のまま動いて、動きながら何かしらを学んでいた。結果、「バカだろ」とセルフツッコミ待ったなしな事案も多々起こしている。「やってみる前に考えてみなかったの?」みたいな。いや、考える前に気付いたら動いていたんですよね。というか、考えていないからこそ動けたんですよね、みたいな。考えたら動けないことって、あるよね。

周りからは「真面目でまっとう」な子どもだと思われがちだったから、やらかしたときには「何で!?」と驚かれることが多かったように思う。何でも何も、理由なんて「やってみたかったから」くらいなもので。そんなにギャップ、ありましたかね。あったんだろうね。なぜだかわからないけれど、ルール順守・型にはまった優等生、みたいに思われがちだったから。


「考える」が優位にくるようになってから、だんだんと軽やかに動けなくなっていった。後先考えずに動くのは、どうやらよろしくないらしいと学んでしまったせいだ。いや、まあ、後先考えずに動くことは決して手放しで褒められるものではないけれど。

でも、当時のわたしは今よりも動けた。結局、動かなければ何も変えられないのだから、「動けた」一点において、過去のわたしは今のわたしより成長力を持っていたんじゃないかって、そう思う。



石橋をひたすら叩くようになった。痛い目を見た経験値の積み重ねが、そうさせているのだろう。随分と「事後」を気にする臆病になった。

判断材料が増えて危険な橋を渡らずに済むようになったのは、ひとつの成長なのかもしれないとは思う。でも、渡ってみる前から「いや、怖い怖い」「頑丈そうに見えるけど、これ崩れるんじゃないの」「誰か先に渡ってくれ」とうじうじしているのは、どうにもこうにも時間の無駄というか、情けないというか。

昔のわたしなら、「まあ何事も経験だし」と言い訳めいたことを言って、「ダッシュで走れば、まあ崩れない気もするしね?」と決して早くない走力でもって思いのまま行動に移すんじゃないか、と思う。結果は出たとこ勝負。賭けに勝つか負けるか。無鉄砲さったらなかったね。二階から飛び降りた坊ちゃんですか。


とはいえ、今のわたしも「全然動けなくなった」わけではない。何だかんだで動いてはいる。ただ、不器用度が増してしまった。

石橋を叩きまくった結果、「よし、大丈夫だ」と確認してから渡るというより、石橋を叩きまくって橋を損傷させてしまった結果、思いっきり向こう側にジャンプして到達するしかなくなってしまった、みたいなことがままある。結局橋が壊れても行くんかい。なら最初から動いておけば、ホップステップと小幅で進めたのに。なけなしの体力を使ったジャンプなんかせずに済んだだろうに。


ブレーキとアクセルが両極端になってしまったんだろう。昔はブレーキがそこまでなくて、アクセルだけで「えいやっ」といけたところが、ブレーキを踏みながらアクセルも突然全力で踏みたくなる、みたいな。無駄な力、使いすぎ。そりゃ、動くたびに疲れるでしょ。もっとイージーにいこうよ、自分……。

考えることも必要だけれど、衝動に忠実な野性味あふれる俊敏な行動力もなくしたくはないものです。時間は有限なんだぞ、自分。

「好きだから」「やってみたいから」「楽しそうだから」とかね、本当に見失いたくないなと思う今日この頃なのです。



お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。