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だから、言わないでいよう

小型犬ほどよく吠える。大型犬のような自信がないからだそうだ。祖父母は犬を飼っていたけれど、わたしはあいにく飼育経験がないから、真偽のほどはわからない。個体差やしつけ次第なんじゃないの? とも思っている。

ただ、人は自信に満ち溢れている人ほど吠えないような気がしている。精神的に余裕があればあるほど、細かいことに目くじらをたてる必要がなくなるのかもしれない。

ひたりひたりと不安が忍び寄ってくるたび、言葉にして吐き出してしまいたくなる。誰かに言いたいのではなく、とにかくひとまず吐き出したくなるのだ。あらゆることに、自信があるようでいて、ない。幼い頃はそこそこ自信があるタイプだったから、“ある”の感覚が残っているのかもしれない。本当は、全然ない。何に対するコンプレックスなのかわからないくらいに、ときどき頭の中がごちゃごちゃになる。

土台がしっかりしていないから、その上に立てた自信のようなものは、呆気なく崩折れる。自信じゃないから。ようなもの、だから。だから、すっくと立ってはいてくれない。

ガス抜きはした方がいいよといわれるし、わたしも誰かに対していうことがあるのだけれど、わたしのこれはガスではない。だから、吐くことは必ずしもプラスにはならない。

悩んだり苦しんだりしていた昔、わたしはそれを誰にも明かすことなく、ひとりへらへらしていた。なかなかにつらく、誰かにいえたら楽になるのかもしれない、なんて思っていた。その“誰か”を欲していた。

その後、“誰か”に出会えて初めてへらへらの下の柔くて弱くてみっともない部分を明かした。うれしかった。楽になれるのかもしれない、と思った。なれなかった。

吐き出せば吐き出すほど、わたしはどんどん弱くなった。前ならひとりで立てていたはずの状況で、立つのが困難になった。あのときのわたしは、完全にその相手に依存していた。ダメだ、ダメだ、ダメだ。ひとりで立っていなきゃ。ひとりで抱えるべき荷物は、わたしが抱えていなきゃ。

迷惑だといわれたわけではなかった。だけど、迷惑をかけたくなかった。重荷になりたくはなかったし、嫌われるのはもっと嫌だった。ああ、あのとき、弱音を吐かなければ。柔くて弱くてみっともない、心の底に溜まったものを見せていなければ。何度も繰り返し後悔して、それでも受け入れてもらえたことはうれしかった。

わたしがいくら自信を持てなくても、底知れぬ不安に襲われていても、それはわたしの荷物なんだよな、と思う。わたしが変わらない限り、情けない部分はわたしに付きまとい続ける。誰かに荷物を預けること自体は時に必要だ。だけど、根本的に解決するわけではないわたしのこの部分に関しては、わたしが引き受けなければいけない荷物なんだ、きっと。

きっと、といったのは、“自立した状態”がイマイチよくわからないからだ。長女あるあるだといわれる甘え下手で、頼り方が壊滅的に下手。誰かに頼ることと自立とのバランス感覚がはちゃめちゃなのだ。

ただ、ひとついえることは、自分をより弱い方向に行かせてしまう弱音や愚痴は、わたしのためにならないのだろうな、ということ。聞かされる相手にとっても、まああまり気分のよいものではないとも思う。堂々巡りになりがちだしね。飽きるよね。

弱くなることは誰にだって大なり小なりあるだろう。そのなかに、誰かに吐き出すことで踏ん張れる類のものがある。ぐっと足に力を込めて、ぐいっと顔を前に向けて、そうして進むために重荷を時に下ろしたいなら、言葉にしてみてもいいのかもしれない。たとえ誰かにいわずとも、言語化することで軽くなることもあるから。

でも、自分をどんどん後ろに引きずるような不安や愚痴であるならば、深呼吸して唾と一緒に飲み込んで、形にしないまま無理やり足を前に出したほうがいい。今は、そんな気がしている。

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