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意識を低く長く走る

持久走が嫌いだった。

冬の寒い中、半袖ハーフパンツで校庭をぐるぐる走り回らなければならない理由がわからなかったし、メリットもわからなかった。

「体力増強のため」「持久力のため」という教師の言い分を肯定するとして、じゃあなんで半袖ハーフパンツでなければならないのか、と寒がりのわたしは常に不服だった。教師に「先生は長袖じゃん」と言ったとき、「先生は大人だから」と返されたことをはっきりと憶えている。……説明になっていなかったから。


そもそも、長く走るということ自体が、わたしは嫌いだ。「口の中が血の味でいっぱいになるやん?」と理由を述べたら、夫に「そんなことなれへん」と言われて、最近になって「みんなが血の味を味わっているわけではない」と知ったのだけれど。


血の味はともかく、最近思うのは、昔のわたしは何事に対しても真っ向からがんばりすぎていたのだろうなあ、ということ。

「適度な力で、続けられるレベルで長く走る」のではなく、「はじめから終わりまで必死」みたいなタイプだった。結果、この必死感が教師の目にはよく写り、運動が苦手なのにも関わらず、体育の成績はそこまで悪くはなかったのだけれど。努力が目に見えるタイプは、学校成績においては得だったのだなあ。


ただ、生きていく上では、「はじめから終わりまで必死」では、到底生きていけない。「常に全力で!」という言葉を見ることがあるけれど、本当に常に全力で尽くしていたら、体力も精神力も削られて、ぺらっぺらになってしまう。

瞬発力を発揮して一気に終わる短距離走ではなく、人生はかなりの長距離走だ。むしろ、スロースターターなくらいが、ちょうどいい塩梅だともいえるんじゃないかな。ここぞ、というときに出せる馬力を残しておかなければ、結果的に何もなし得ないことだってあるだろうし。


意識が高いだとか低いだとかいうけれど、これも「全力」「必死」と同じことだ。意識が実際に高いかどうかはさておき、わたしのような考えすぎるタイプの人間は、意識して意識を低くしておくくらいで、通常はちょうどいいのかもしれない。


「適度」と「手抜き」がわからなくなりがちなひとって、多いのではないかな。「一生懸命やること」「真面目に取り組むこと」を素直にやれてきてしまったタイプは、特に。

あんまり役に立たない真面目さを育ててしまったわたしは、ゼロか100になりがちな極端さを持っている。自分のことだけで完結するものならば、「やる」「やらない」になりがちで、誰かが関わることであれば、完璧を目指さなければという思いを持ちすぎて、無用なストレスを溜めることも多い。(のだと思う)


知らず知らずのうちに擦り切れてしまったり、枯渇してしまったり、突然前触れなくガス欠を起こして身動きが取れなくなってしまわないようにしなければ、と思う。100のメーターがいきなりゼロになってしまうことの方が、結果的には周りに大迷惑をかけてしまうことにもなるのだから。

何なら意識なんてどうでもいいから、「楽に長く走り続けられる程度」を見つけていきたい。



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