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上田市にて。考え事。

日本らしさとはなにか。
脈々と続く、縄文、弥生時代からいうのか。
内藤湖南のいう、室町(応仁)以降でよいのか。
西洋文化を多く取り入れた明治以降なのか。
または、戦後昭和がわかりやすいのだろうか。
今日の昼下がりの脳内。こんにちは。
午前中のことは・・・書くのが難しくて迷っている。
こんにちは。

上田城跡。
真田石とあります。所謂、かがみ石です。
真田幸村については、子どもの頃に真田十勇士をからめた漫画を交えた本と司馬遼太郎『風神の門』を読んだ程度とその他資料から見て取れた知識しかありません。司馬史観にならないよう気をつけます。。。

拝殿
本殿

眞田神社。
真田幸村公の碑文の脇に小さく合祀とあります。当時の人なら信繁って書くだろうに。
個人的にですが、合祀という響きは、あまりよろしくないですね。故人に対して無理矢理的に思ってしまう(故人は本心を言えない)。近親者が建てた碑なら理解もできるけど。

由縁としては、以下。

松平家は、真田氏、仙石氏のあと、江戸時代中期から明治の廃藩に至るまで七代百六十余年の長きにわたる上田城主でした。

松平家は先祖を徳川将軍家と同じくする松平氏の一つで、藤井松平氏と呼ばれます。上田城主となった系統の藤井松平氏の初代忠晴公は、隠退後は忠山と号しました。寛文九年(1669年)に亡くなられた忠山公の御墓所は京都の金戒光明寺にあります。その京都に忠山公の御霊をまつる忠山社が設けられてもいました。この御社が当社の起源になります。

眞田神社HP http://sanada-jinja.com/

真田氏は上田市の象徴でもある上田城を築き、その武略によって上田城の名を高からしめました。仙石氏はその後をうけて上田藩政を発展されるとともに、関ケ原合戦後破却されていた上田城の復興にもあたりました。 これら先代の城主も合わせてお祀りすることが、上田城跡守護の神社として、また、新時代の神社として望ましいのではないか、という声が先の大戦後に起こりました。そして、昭和二十八年(1953年)に真田氏と仙石氏、そして松平氏の歴代全城主を合祀して、松平神社から上田神社と改称致しました。しかし、かつて市内にあった同名他社と紛らわしいこともあり、初代城主である真田氏の名を冠して、昭和三十八年に眞田神社と再度改称し今日に至っているものです。

眞田神社HP http://sanada-jinja.com/

観光として商用的に使ってるのではないかと(使ってるけどね)怪しんでいました。半分ごめんなさい。と、まぁ、合祀は戦後、建立は明治。
建立の理由として、「上田城に拠って二度にわたる徳川の大軍の攻撃を退けたという、真田氏 の活躍などで名高い上田城跡を、史跡として後世にまで伝えたい、という願いがあってのことでもありました。」と、建立時期を考えると、この辺りは大きく引っかかりますけどね。

西櫓から

私のつたない知識での時代区分としては結構疎い室町後期(戦国)。義政と応仁の乱で個人的には室町は終了している(ぉ
戦争に明け暮れている時期にロマンなぞ感じないことは大きな理由。情報も少なく、普段の生活の中に忽然と敵が襲いかかってくる日常を考えてロマンだとか、どう考えたら・・・。

上田市立博物館。

私なら着られない
ギリ着られるか・・キツいか

甲冑の大きさで、当時のひと小さいな、とか、この人太ってるなとかを写真に収めたつもりでしたが、全然わかりませんね。写真NGもあってお許しください。

比較として見ていたわけでは無いけど、一つ苦情を・・・。
「上田藩の洋式兵服」が展示されてますが、その兵服が着せられたマネキンは女性衣料用ではないでしょうか。当時の一般的な兵服であればボディーラインに違和感を感じます。今なら女性だとかどうでもよく、着てかっこいい様なコートみたいなものです。

「食用野草類書き上げ」という展示もありましたが、天明の飢饉の時、何を食べるか、どう飢えをしのぐかが書いてあります。上杉鷹山の「かてもの」のようなものでしょうか。甲冑とかじゃなく、こういう資料を撮影OKにしてほしい。

手すりは、おそらく手斧(ちょうな)による削り出し。博物館が博物の一つになりつつある。


散歩する。(anoちゃんの「メール読む」風に)

蔵をあちこちで見ることができました。城下町ならではかな。

ゲーセン。ストⅡとか忍者龍剣伝とか懐かしすぎる。当時はやらせてももらえなかったし、ファミコンもだいぶ後に自力で買ったな・・・。入る勇気は無かった。大阪の新世界にも昔のゲームできる所あって好き。

もうすでに閉店してしまっているけど、時代だよな。今見るとオシャレと怖いが混在している。

これはこれで洒落てる。pubらしい。営業してるぽかったけど、時間外でした。

トマソンを思わせる。が、ドアノブがちゃんと付いていた。とにかく、蔵があちこち多い。

ストリップが眼を引きますね。
昔のエンタメ最前線でしょうか。


上田映劇。映画館。
『夢二』は竹久夢二のことだろうか。そうであったら見てみたかった(時間外でした)。配信されてないだろうか・・・(それなりに配信課金している)。
映画館で映画を見ることは少なくなった。近年3時間近い映画も増えてきて、映画館で見るには厳しい時間にもなってきている。映画館で見る娯楽としての映画は、昭和で終わっているし、芸術としての映画はメディアの多様性をもって沈下して行っている感じはする。ただ、私は、時間が出来たときに配信で見たいと思う、今現在の考えと同じくしている。映画館で映画を見るということは、スペシャルなことになっていくのかもしれないと思うと同時に、一つの文化が遠のいてるなと感じる。

以上、上田に多く見られたなと感じたのは、昭和。幸村界隈も含めて。
昭和レトロという言葉が派生したように、今の若い世代には昭和は新鮮なようですね。また、その当時、その子ども世代には、懐かしくて暖かさを感じるのかもしれません、あちこち昭和だらけの上田市でした。

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