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個性か安定か?

私の所属する書道会派は、個性が強い作品、その人しか書けない一点ものこそ価値があるという考え方である。

「今年の競書内容はよく考えとるなぁ。顔真卿、空海と繋がりがある書を選んできたな。難しいことをやるのは腕が上がる。強い美しい線が書けるようになるには外されへんからな、がんちゃんと空海は。」

大先生は熱く語り始めた。

大先生や師匠が「がんちゃん」と呼ぶこの顔真卿(がんしんけい)とは、中国の有名な書道家で、唐時代の政治家でもあった人である。

蚕頭燕尾(さんとうえんび)と呼ばれる起筆が蚕の頭のように丸く、払いが燕の尾のような形になっている筆使いに特徴があり、臨書するのがとても難しいのであるが、ふくよかでどっしりした線でありながら、ブレのない切れ味の良い美しい線は、個性的であるが本当にうっとりする筆さばきだと思う。

私は中学生くらいからすでに顔真卿の書が好きだった。
それはやはり、今は亡き師匠も顔真卿が好きだった影響を受けていたのだと思う。

顔真卿の書は少し傾いているのも特徴で、まっすぐ正しい正統派の楷書ではない。

私はそれを好む師匠に8歳の頃から20歳を過ぎる頃まで教わってきたのだ。

だからかどうかは定かではないが、小学校低学年の頃までは、私の字はあまり学校の先生ウケしなかった。

書道展に先生が選ぶ字は、別の書道教室に通っている正統派の字を書く子の作品が多かったが、転機が訪れたのは小学校四年生になった時だった。

担任の先生が、書道が得意で好きな方だったのだ。
その先生は私の字を絶賛してめちゃくちゃ褒めてくれた。

そして私の作品を、書き初め展や硬筆展に選出してくれたのも、この先生だった。

もしかしたら先生も顔真卿派だったのかもしれない。

見る人の好みで0点から100点の評価になることもある。それを教えてくれたのはこの先生だったと今でも思っている。

そして40歳を過ぎた今、再び元の書道会に戻り、一からの修行を再開したわけであるが、大先生や師匠の批評を聞くのは改めて面白いと感じる。

「あんたな、うちの近所の先生の稽古場をいっぺん覗いてみーひんか?まぁ、個性のない、綺麗なだけのひとっつもおもろない字を皆が手本どおりに書いてるんや!あんなんはワシは好きやない‼︎あんな決まったことだけしとっても、ひとっつも成長でけへん‼︎」

90歳を過ぎてもなお、今よりもっと上手くなりたい、成長したいという気持ちを忘れちゃいない大先生は熱いのだ。

好きなものは好き、嫌いなものは嫌いや!とハッキリ言うその不器用なところも、顔真卿に少し似ているのかもしれない。

筆の立つ、名を残した顔真卿のような素晴らしい書道家でも。

「こんなものは駄作だ!正統な書だと認めない‼︎」

顔真卿の躍進ぶりと才能を面白く思わない先人の書道家たちにはそんなふうに言われていたようであるし。

「顔真卿の書が素晴らしいだって?あなたさまの方がお上手でいらっしゃるのに〜。」

「いやはや、何をおっしゃいまして!私などよりあなたさまの書が顔真卿などよりもお上手ですよ〜。」

彼の才能には及ばない筆の立たぬ者からの要らぬやっかみや皮肉を受けた歴史があるのだろう。

「顔真卿の作品は、その個性の強さから好き嫌いが分かれる。」

そんなふうに書かれた文章を様々な書道作品集や教本の中でも見かける。

現代においてもなお、顔真卿を批判する人がいるのが現実なのだ。

これは私の想像であるが、顔真卿の当時の心の内を考えてみる。

「私の書を駄作だ、たいしたことないと言うならわかった!私の書ぐらい誰でも書けるという者がそんなにいるというのだな?」

そんな怒りや悔しさもきっとあったに違いない。

彼の作り出した独特の書法である「顔法」が誰にでも簡単に真似ることができない複雑な筆使いなのはそのせいかもしれない。

他人の好き嫌いの基準に自分を合わせていては、平常心は保てないし、良い作品を生み出すことはできない。

「個性か安定か?」

もしもそう問われたら。

私はやはり前者を選ぶ。

「愚かな部分も忘れない、ただ一人のあなただ。」

正統じゃなくてもいい。なってない部分やデコボコ具合もある、だけど私にしか書けないものを持つ。

そんな書道家に私はなりたい。

#エッセイ #書道 #顔真卿 #コラム

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