「#○○好きな人とつながりたい」について考える

私は現在インスタにおいては、友達限定のメインアカウントと、趣味の写真を公開する裏アカを持っている。

自分の好きなように写真が撮れるとすごく嬉しいし、それを撮りっぱなしにするのはもったいないなと思い、写真アカウントを作った。

どんなに有名なフォトグラファーでも、独自の世界観を持つ写真がとっても上手な幼馴染でも、とにかく皆、尋常でない量の「#」をつける。

#フィルムカメラ

#写真好きとつながりたい

5行とか、6行とか

ネットで調べると塊でコピペできるようなサイトがある。


私は「#○○好きとつながりたい」という文を見ると、なぜか拒絶反応というか、「???」という気持ちになる。

なぜか。

たぶん、簡単に言ってしまえば、私が相当ひねくれているからである。

どうひねくれているかというと、

まず「○○好き」という言葉で自分を自称している点に違和感を覚え、

「つながりたい」という言葉があまりに直接的で、なんか、嫌なのだ。

(実際は別にみんなそんな深く考えてコピペしてるわけではないんだろう。)

一方では、自分も、スマホのフォルダに入れておくのはもったいないと称し、公開アカウントを作ってまで投稿して、いいねがもらえると嬉しい。

素直に「つながりたい(認めあえる関係がほしい)」と言えない。

なぜか。

きっと自分はそんなあからさまに欲しがらなくても、内容だけで世の中は分かってくれるだろ、みたいな傲慢さ、根拠のない自信があるのである。

あるいは、なんかフォロワー/いいね集めに必死だと思われたくないのである。

日々増えて長くなっているような気がするYouTubeの広告や、内容の無い割りにフォロワーがごまんといるインスタグラマー、大量のハッシュタグを見る度に、世の中は私が思うようではないのだという事実を見せつけられる。

確かに、公開アカウントでも自分のペースでのんびり、別にいいねが1つでもいいなら、それでいいのだ。

しかし、下手なプライドは捨て、乗るものに乗らずしては、少なくとも世の中で'上手くいく'ことは難しいのだろう。

私はどうか。いいねをたくさんもらえると嬉しい。自分の思い出とか、メインアカウントの方はたぶん割とどうでもいいのだが、写真はなんとなく「評価の対象」になってみたい気持ちがある。本当は。

結論:

世の中で'上手くいきたい'と思う時、自分の意に反しようが反しまいが、世の中の仕組みが「そう」なっていることを知っているのに、「それ」を避けるのは意地で自己満でしかなく、多くの場合結果は得られにくい気がする。

私はより多くの人に自分の写真を見てもらいたい、自分の世界観をいいね!って思ってもらいたいので「#」の数を増やそうと思います。貪欲に。


でもやっぱり「#写真好きとつながりたい」は恥ずかしいので取ります。