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「人の世に熱あれ、人間に光あれ」


「人の世に熱あれ、人間に光あれ」

ジェンダーについての投稿をすると、それがセンシティブな話題だと思われるのか、自分には関係ない話だからなのか、見て見ぬように扱われます。

この国では自らの性自認が生まれ持った性と異なる人の割合が、13人に1人、AB型の血液の人と同じだけ存在するといわれている現在、最早それは「見えない社会問題」ではないのです。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1324175254713351&id=100013626660629

先月にあった同性婚訴訟で国側は「結婚は伝統的に子どもを産み育てるためのものなので、同性同士は想定されていない」と日本国憲法の理念を踏みにじる答弁をしました。
高齢者や子供ができない世帯はどうなのかという整合性のかけらも無い強弁と、何より、国家が主体になって主権者である国民の差別に加担する姿に、僕は深く傷付きました。

その後、僕はかつて心をとらえた言葉を猛然と思い返したのです。

大正時代、日本最初の人権宣言として生まれた「水平社宣言」は、被差別部落出身者達が、生きとし生けるものとして社会に平等を得る権利を訴えたものです。
前半の生々しい魂の慟哭から、最後高らかに人の世のあるべき姿を謳ったこの言葉を学生時代の授業で知った時、何度も読み返しました。

30年前、被差別部落の過酷な運命を描いた住井すゑの「橋のない川」の2度目の映画化がありました。
僕は観ていませんが、水平社宣言が綴られた屏風を背景に、黒い着物を着た異形の花嫁の姿を映した宣材画像を見た時、この宣言は僕の中で忘れ難いものになりました。

はっきりと言います。
差別は、持てる者が持たざるものに行います。
強い者が弱い者に行います。
それを「卑劣」と呼ぶのです。

持てない者、弱い者は何もしていません。
誰も傷付けていません。
にもかかわらず、虐げられ、蔑ろにされ、傷付けられ、無き者にされるのです。

水平社宣言の最後はこのように結ばれます。

「…そうして人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間(にんげん)を勦(いた)はる事が何んであるかをよく
知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃(がんぐらいさん)するものである。 
 水平社は、かくして生れた。 
 人の世に熱あれ、 人間(じんかん)  に光あれ。 」

最後、「人間」は「にんげん」ではなく「じんかん」と呼びます。
人と人の間に光を希求するのです。

どんな性に生まれ、どんな性を希み、どんな性を好きになるか
人は平等に生まれてはきません。
しかし、権利と機会は等しく同じであらねばなりません。

それが、社会のあるべき姿であり、
僕は生あるかぎりそれを希みます。

※「水平社宣言」についてわかりやすい記事のリンクです。
https://www.asahi.com/sp/articles/ASQ2V51TCQ2GPTIL00L.html

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