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「ペンキ屋はbarにいる」revised

5年前、本編の連載が終わってしばらく後、備忘録のようなつもりで最後の追記を綴りました。
忘れ難い偶然の出来事が、物語の最後をプレゼントしてくれたようです。
出会いに終わりがくるように、自分の中にある少し寂しい別離を記録するために

僕が通った覚王山のバー、Love potionは、元々つぶれた呉服屋の本社屋のビルを改装したテナントビルの4階にあった。
かつてはその廃ビルの前を通って、幼い僕は小学校に通っていた。

はっきりしない記憶をたどると、確かバブルの87年前後、今池の東海銀行の駐車場跡地にカラーズという屋台村ができた。
クラブを併設していて僕も含め多くの若者が夜毎に繰り出した。
外国人も多く、クラブではアズワドやマキシ・プリーストなどのラバーズロックやレゲエから、ザ・ピーナッツなどの昭和歌謡までかかっていて、屋台でつまみ、酒を飲み、クラブでだらだら踊った。

斬新なチープ感が面白いこの屋台村は、聞いた話では大阪のアメリカ村を手掛けた人たちが作ったという。
しかし違法薬物が蔓延し、治安が悪くなったため5年の限定契約を破棄されて前倒しで解散してしまった。

そのカラーズを手掛けたスタッフたちが覚王山の廃ビルに集まって何か訳のわからんことをしてると噂を聞いた。
とても普通の工事と思えない。作っているより壊しているようにしか見えなかった。前面の広小路通りからは、いつも足場の上からサンダーや溶接の火花が凄まじい勢いで上がっている。
ムチャクチャな鉄骨、角パイプ、鉄板を狂ったように溶接し、外壁を斜め四角にぶち抜いてブレードランナーな建物が出来上がった。
美大生や外人の溶接工、アーティスト崩れが遣りたい放題した後に、幾つかのテナントがオープンした。

僕はこのビルを愛した。
Love potionに通った頃、帰りはエレベーターを使わず、奇妙な幾何学的壁画が描かれた階段室を一人降りながらその空間を眺めるのが好きだった。

客筋が変わってLove potionから足が遠のいた13年前、僕がいつもお世話になっている設計士の先生がこのビルの改装を手掛けることになった。僕は驚いた。

元々注文住宅以外ほとんど設計しない先生にこの話がきたのは、その前年先生が手掛けた住宅のオーナーがこの沿線の物件を展開するディベロッパーで、ビルを買収したからだった。
その住宅は僕も塗装させてもらっていた。

「岡田君、この壁をこのまま綺麗にできないだろうか」

僕が知っていた階段室は、元々旧いビルだったため、外壁からの漏水のため至る所で壁画がボロボロに剥離していた。
その復帰は極めて困難な仕事だったが、僕は勿論二つ返事で引き受けた。

幾つかのテナントは営業しているため、溶剤を吹き付ける訳にはいかない。
剥離した部分を捲り、パテで補修し、何度もマスキングをラインに合わせて張り直しながら水性の材料で重ねて吹き付けていく。
僕は自分の思い出を、自分の技術で再生するという不思議で困難で信じられないほど幸福な時間を過ごした。
そしてそれを貫徹した。

外壁は先生の手によってシンプルなデザインに生まれ変わった。かつてのカオスなデザインを知る自分はちょっと残念ではあった。

そして8年後、「ペンキ屋は~」の連載の最後に、自分が気持ちを込めたあの階段室を写真にとって載せようと思いビルに赴いたら鍵がかかっていた。
僕はビルやLove potionを検索した。そしてほんの2週間前にビルの閉鎖と、それに伴うLove potionが閉店したことを初めて知ったのだ。

どうにもならない寂しさを覚えた。

ビルの閉鎖を知った2ヶ月後、僕の携帯に先生から連絡があった。
あの覚王山のビルのオーナーが自宅を塗り替えたいそうだから、岡田君直接やってもらえるかと言われた。

またも偶然に驚いた。

オーナーの家に伺い、打ち合わせが終わった後、それとなくビルの話をした。
オーナーは最低10年は使うつもりだったそうだが、広小路通に面したあのビルは市から耐震規制が新たに課され、建て替えざるを得なかったそうだ。
ビルの鍵を借りようと思っていたら、もう解体工事が始まると聞いた。

僕は家を辞した後、ビルに車を走らせた。しかしどうやら盆休みで工事はやっていなかった。

盆が明け仕事が終わった後、ビルを訪れることができた。
まだ解体は始まったばかりだった。
Love potionも居抜きの状態で、祭りの後の無残な姿を晒していた。

1階から6階まで歩いて登った。
ほんの僅かに感傷に浸りながら、僕はこの階段室との最後の逢瀬を独り写真に納めた。

自分の写真はほとんど残していない僕の、それは大切な記憶になるだろう。

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