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「ペンキ屋はbarにいる」1

タイトルはもろパクリですが、インチキ文筆家らしく、たまにはらしい企画をやってみたい訳で、短編小説ばりのエッセイを少々。
若かりし頃の「酒と薔薇の日々」の追憶です。
興味を惹いたらどうぞご一緒ください。


アルコールを嗜むようになったのは30からだった。そこに至るまでには自分の修行(?)があった。

高校の頃、同級生の家に遊びに行き。そこで初めてジンという酒を知った。
当時、酒というとビール、日本酒、ウイスキーしか知らない(飲んでもなかった)17歳は、その香りが新品の刷りたてのインクのように思えた。
大人の世界に足を踏み入れたような感覚。
初めてのフレイバーは、なんだかとても素敵に感じられた。

高校卒業後会社勤めを始め、付き合いでよく飲みに行くようになったが、アルコールに弱く、決して好きで飲んではいなかった。
ただこれも大人への憧れだったのだろうか、酒が純粋に楽しめるようになりたかった。

ディスプレイ業界で店舗工事の監理職を務めていたそんなある日、上司から無理矢理大坂の現場に車で来るよう言われ、いやいや日帰りの強行軍となった。
キツい仕事が終わると早く帰りたい自分をよそに、泊まっている上司に一緒に一杯付き合わされる。
本人はどれだけ飲もうが楽しいだけで、こっちは200キロ以上運転して帰らねばならない。
まだ飲酒運転に世の中は寛容な時代だった。

22時を過ぎて解放され、へべれけで名古屋まで運転したのだ。
恐ろしい時代もあったものである。

その夜、ドライバーズハイになってた僕は、酷く疲れていながら意識が高揚してしまった。
実家が名古屋の千種区の池下だった僕は、結婚して隣の天白区に移っていたが、名古屋に入った帰り道、何故か覚王山のテナントビルの看板が気になり、夜中の1時を回っていながら車を降り、初めてその店の扉をくぐった。

覚王山のMTUFJの真向かいにあるそのビルは、外から見ても無茶苦茶な建物だった。バブルの後、大坂のアメリカ村の成功を受け、携わったアメリカ人の鉄工アーティストや芸大生、芸術家の卵らが大挙して滅茶苦茶に造ったと聞いたことがある。
どうやって建築検査や消防検査が通ったのか不思議なほどキテレツで、地元の自分は気になって仕方なかったのだ。

かつてビルの2階にある雑貨店に訪れたことがあった。
針金アーティストの女性が自作を売る店で、一度女の子のプレゼントを買い求めた時、上のお店でアルバイトしてるから遊びに来てねと誘われていた。
その女性は雰囲気のある美女で、ちょっと気になっていたのだ。

love potion、愛の媚薬とでも訳せばいいのか、その店は5階にあり、カウンターだけで10人入るのが精一杯どころか、客がいると移動もできないほど小さな店で、意味不明な角パイプや切断した鉄板が溶接されている場末のブレードランナー的異空間だった。

多分僕はジントニックを頼んだと思う。インクの匂いを味わいたかったのだろう。

カウンターには出来上がった二人の中年がいた。
ずっと後で知るのだが、その片方はバーのオーナーで名古屋で有数のジャズドラマー、もう片割れもそこそこのジャズベーシストだった。
ベースのN氏はスッゴい名古屋弁で、会話を聞いてるだけで笑えてくるほど強烈だった。

酔っぱらいの会話
「で、ジャンボ尾崎のコンペに呼ばれてさ、〇〇と一緒に車でいったのよ。グラブに着いてトランクからドラムを降ろすとスタンドが無いじゃん。〇〇に積まなかったのかって言ったら、俺が積んだと思ってたって言う訳よ」
「それでどうしたの」
「帰ってたら間に合わないから、何とかそこにあるもので無理矢理間に合わせてさ‥机とか」
「そんなんで出来たんけぇ?」
「向こうも変な顔してるわな。尾崎もなんか違うなって顔してこっち見るし」

ドラマーのU氏の話が出色で、確か26だった自分はへべれけの二人の会話が面白過ぎて強烈な印象を刻んだのだった。

2時を回って帰る際、迎いにある「臨済」というバーから、耳を曨せんほどのすさまじい轟音が鳴り響いた。
着物のママがいるその店はこちらも狂ってて、ディープ・パープルのハイウェイスターを夜中に大音量でかけてるのだ。

僕は誘ってくれた女を目当てにしてたのも忘れ、数年後この店の常連になっていた。

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