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「ペンキ屋はbarにいる」6

このエッセイの本編はこの6話で終わります。
後日談のエピローグがもう1話ありますが、若き日の思い上がった奇妙な日々を振り返るのは、様々な感興を自分にもたらします。
そう、MIXTURES EMOTION 、ですね。


初めてのまとまった話を書き上げた僕は、勢いそのままに次作に取りかかった。
脳が痺れるような余波が切れる時、それをもう一度手繰り寄せたかった。
そして今なら、それが可能に思えた。

昔から現在に至るまで、僕は構想をまとめたりノートをとることが全くできない。
本当にざっくりしたストーリーがぼんやりとあり、幾つかのシーンが飛び石のように頭に映像化されている。
その点と点を手探りで繋ぐのだ。

いつも考えながら書く。
そして書いたものをほとんど修正することもない。
一度書いたものに手を加えることができないのだ。
考えたところで最初のイマジネイションを越えれるとは思えず、また、多少の傷があったとしてもそれを尊重する事を優先した。
だから自分にとって執筆という行為は、いつもワンテイクのセッションのようなものので、それは今でも変わらない。

日々現場で塗装をし、時にバーに通い、部屋で飲みながら小説と向き合った。
書けば書くほど言葉と文章は研ぎ澄まされていった気がした。
あの頃、家業は不振とはいえまだ気持ちには余裕があった。きっとそれこそが若さだったのだ。

そして、若いということはそれだけですべて間違いなのだ。
もっとも、間違いそのものに正しいとか悪いとかの価値など無意味ではあるが。

love potionの咲子ちゃんは当時美大生だった。
卒業し、堀田にある大手家電メーカーにデザイナーとして内定が決まった。

彼女は世にいう「天然」みたいな感じもあったが、会話の中で何の前触れもなく核心を突く言葉を発することが度々あった。

「岡田さんは自分のことを純粋だと思いますか」
あの問いかけは僕の何かを変えた。
多分それは、想像もできなかった問いかけに、本能的に瞬時に応えた自分への驚きでもあったのだ。

僕は彼女をプライベートで何度か誘うようになった。
それは彼女が学生から社会人に、そして自分は3作目の小説を執筆中の時期と重なった。
一年に満たない二人の短い月日は、時間の流れと反比例して記憶に残る日々だった。

僕は彼女にも原稿を渡してみた。
彼女は学生の頃写真をやっていたと聞いていたが、僕にお返しとして自分の写真をファイルしたアルバムを貸してくれた。
なんだか嬉しかった。
写真のことは専門的にはわからないが、僕は自分の審美眼でこれは素晴らしいと感じた。
それを本人に伝えた。

「君は絶対写真を続けるべきだ」

小説が終わる頃、僕は彼女に恋をした。
しかしそれは異性としてではなく、人としてである。
上手く語れないが、それまで出会った人間の誰とも彼女は違っていた。
穏やかで、決して器用ではない自己表出のあり方は時に鮮やかな覚醒を伴っていて、間違いなく学んで身に付くようなものではなかった。
後にも先にも、同じような感性を持った人に出会ったことがないことがそれを確信させた。

「僕は君に恋愛感情がある」
そう口にした僕に咲子ちゃんはこう言った。

「岡田さんにとって、恋愛感情とは何ですか?」

僕はまたしても驚いて彼女の顔を見た。
考えはまとまらず、しばらく間が空いたあと、感じたままの言葉がこぼれた。

「上手く言えないけど、なんかこう…馴染み深い感覚、優しい気持ちになる感情かな。
そう、馴染み深い…」

もう恋愛に恋をする歳でもなかった。
以前の古さんの時もそうだが、僕の前を通っていった女性にとって、僕はおそらく友人より重要な存在であったのかもしれない。
彼女たちはいつも、僕にしかこんな話はできないと多くの話題を語った。
僕に何かがあったとは思えない。それだけ世の男たちに、心の声を促す耳がなかっただけではなかろうか。

僕は、常に相手にとって真摯で、道義的に厳しかった自分自身に救われたことを知る。
過ちを犯すことなくよき友人のまま、互いの心に何かを残して去ることができたのだ。

咲子ちゃんが就職してlove potionを卒業した後、本人の許可を得て、彼女の写真が僕の処女作のカバーを飾った。
その頃彼氏が出来て、異性の友人がいることを自分に許せなかった咲子ちゃんは、申し訳なさそうに会うのを止めたいと申し出た。
最後まで彼女は彼女らしくて微笑ましかった。
僕は今までありがとうと言って二つ返事で受け入れた。
咲子ちゃんはその潔さが驚きだったようだ。

いつも「私の周りには岡田さんのような大人はいません」と言っていたが、どうやらこちらも最後までそんな大人でいられた訳だ。

後書きに彼女への謝辞をいれた出来上がったばかりの本を、彼女が住む会社の寮の受付に渡し、僕らの日々は終わった。

別れは、清々しい気持ちがした。

思い出は、振り返る必要はないが、美しければそれでいい。
きっと、たぶん。

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