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沈みゆくバス停

真っ白な空と水平線。
そこにポツンとあるバス停で、次を待っていた。
水位は上昇を続け、既にくるぶしまで浸かっている。
こうして立ち尽くしながら、いくつものバスを見送ってきたが、未だしっくりくるものはやって来ない。


「僕、次のに乗っていくよ」
突然、隣に立っていた歩(あゆむ)が声をかけてきた。
「え、行きたい場所決めてたのか?」
進(すすむ)が意外そうに返す。
「うん、決めたのは最近なんだけどね」
「そっか、寂しくなるなあ」
右手から走ってきたバスが、ゆっくりと近づいてドアを開けた。
「二人も早いとこ、乗った方が良いよ。もう、あんまり時間なさそうだし」
膝まで来ていた水をサブサブとリズム良くかき分け、歩はバスに乗り込んだ。
走り去るバスから見えた歩の瞳には、もう自分には見えなくなってしまった星が映っていたような気がした。


『どこにだって行けるけど、どこにだって行きたくないよな』
歩と進とは、もう何年もこうしてバスを待っていた仲間だった。
雲が流れ、星が瞬き、影が伸びたり縮んだり、そういった変わりのない日常を3人で過ごしているときが、たまらなく幸せだった。
そのうち陽が昇らなくなり、少しずつ水位が上がってきた。
それでも3人で、同じ時間を同じ場所で過ごしていきたいと思っていた。
靴が浸かったぐらいで、焦ってバスに駆け込む人を見ては「生き急いでるねえ」と小ばかにしていたけれど、歩はいつから向こう側になってしまったのだろう。


歩がバスに乗って数年後、水は臍のあたりまで来ていた。
空は変わらず真っ白で、変化のなさに安心する。
一方でバスが来る頻度は減り、進からは焦りが感じられる。
「なあ、次のバスいつ来るんだ?」
「気にしたことないから、分かんないよ」
「くそっ!」
怒りと共に蹴り上げられた脚は、水中でゆっくりと弧を描いて着地した。
ほんのわずかだけ波が立ったが、水面はすぐに平らになった。
「俺、もう次で行くわ」
痺れを切らした進が、そう宣言する。
「行きたい場所、決まったん?」
「決まってないけど、流石にそろそろ乗らないとヤベーって。お前も一緒に来いよ」
「いや、でもなあ……」
『どこにだって行けるけど、どこにだって行きたくないよな』

そんな問答を繰り返すこと数週間、胸までどっぷり水に浸かり始めた頃、約半年ぶりのバスがやって来た。
「終点は未定って書いてあるけど」
「んなこと、もうどうだっていいだろ! それより、お前も乗るなら早く来いよ。出発すんぞ」
「そうは言っても、どこに連れていかれるか分かんないの、不安じゃない?」
「じゃあお前は、いつまでもそこにいるんだな」
進はそう吐き捨てると、空席が目立つ車内の一番前に座り、安堵の表情を浮かべた。
ドアが閉まる直前、運転手が私に声をかける。
「次はもう、来ないかもしれないですよ」
「でも、どうせ次も終点は未定ですよね?」
「ええ、もうこんなご時世ですし」
「じゃあいいです」


進が去って更に数年、背伸びをしていないと呼吸が難しくなってきた。
あれ以降、一度もバスは来ていない。
だが、このまま沈んでいく不安よりも、知らない何処かへ連れて行かれる不安の方が勝っていた。
十何年と水に浸かっていたせいか、このままでも何とかなるんじゃないかという気にさえなってくる。
そういえばと、試しに潜ってみたが呼吸はできなかった。
上手くいかないものだ。


進がバスの運転手としてやって来た。
「お前、運転手になりたかったのか」
「いんや、全くそんなつもりはなかったけど、あの日助けられたことが忘れられなくてさ。自分も救う側になってみたいな、なんて」
そのバスの広告には、歩らしき人物が写っていた。
「歩のやつ、有名予備校講師になったみたいでよ。すげえよな。俺たちみてえな人間でも、あんなとこに行けるのかって思うと、少しだけ希望が湧くっていうかさ、なんかかっこいいよな」
自分に酔ってるのか?と伝えようとするも、口の中に水が入って上手く喋れない。
「どこにだって行けるけど、どこにだって行きたくないよな」
「……?」
「お前、昔からそう言ってただろ? でも、どこかに行くのも意外と悪くないぜ」
「そうだよ、やってみたら、案外楽しいことだってあるよ」
広告の中の歩が追い打ちをかけてくる。
「生徒が成長していくのを見ると、自分のことのように嬉しくなってくるんだよ」
「ああ、それ俺も分かるわ。客を拾っていくと、昔の自分みたいな奴がいてさ――」
「――いよ」
「え?」
「うるさいよ!」


ヴァーという鈍いクラクションで目が覚めた。
バスのドアが開き、運転手が声をかけてくる。
「――すよ」
だが、耳の中に水が入ってきてよく聞き取れない。
「もう――最後の、――乗らないと――」
どうやら、正真正銘最後のバスらしい。
答えは既に決まっている。
「結構です」


一歩踏みだすとか、環境を変えるとか、そんな面倒なこと、死んでもしたくなかった。
水面が鼻の穴を覆う。
どこにだって行きたくなかった望みが、叶う。


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