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見返りがなくても、人に尽くすこと ~『かさじぞう』

雪がしんしんと降る中、じっと立ち尽くして人びとの幸せを祈る六地蔵。その石の仏に、お正月の備えを買うために用意した大事な笠を差し上げて、自分たちはお湯でいいよねと笑い合うおじいさんとおばあさんの物語。この『かさじぞう』という物語には、日本人が元々もっているやさしさがつまっています。

「オレオレ詐欺」のような犯罪には、やさしさを抑えて気を引き締めなければなりませんが、この昔話のように「見返りを求めないやさしさ、他人やこの世のあらゆるものに対する愛情」は、どんな時代になってももっていたいと、私は思います。

『かさじぞう』あらすじ

念のため、『かさじぞう』のあらすじを書いておきます。『かさじぞう』の物語は日本各地にありますが、それぞれ微妙に違いがあります。

一般的に知られているものは、おじいさんが正月の備えのために笠を売りに行ったけれど、村はずれにある六体のお地蔵さんが寒そうに立っているので、持ってきた笠をかぶせてやった。ところが笠は五つしかなかったので、おじいさんは自分がかぶっていた笠をかぶせてやった。するとその夜にお地蔵さんが宝物をどっさり持って、おじいさんとおばあさんのところにお礼に来た、というものです。

私が勤めていたラボ教育センターも、『かさじぞう』の物語を出版していますが、このお話は少々違っています。もとになったお話は山形に伝わる昔話で、『真室川の昔話~鮭の大助』(野村敬子・著 おうふう)という本に収録されたものです。

ラボ教育センター版の『かさじぞう』も、笠をお地蔵さんにかぶせて雪をしのいでもらおうとするけれど、笠は五つしかない、という点は同じです。

違うのは、主人公のじいは笠を作って売りに行ったのではなく、木を切って売りに行き、得たお金でお地蔵さんのための笠を買ったこと。また五つしか買えなかったので、最後のお地蔵さんには、じいがあてていた「もっこふんどし」をかぶせてあげるという点が違います。

自分がかぶっていた笠をあげたのなら、お話の終わりに六体のお地蔵さんが宝物を持ってくるとき、おじいさんとおばあさんは「いったい何事だろう」としか思わないでしょう。しかしラボ版のお話のようにふんどしをかぶせたとあっては、良いことをしたと思うと同時に、その日の朝につけたばかりとはいえ、そんなものをかぶせたのは無礼だったのではないか、罰が当たるのではないかという畏れも抱きます。

お話の終わりでは、やってくるお地蔵さんを見て仏罰を与えに来たのに違いないと思い怖ろしくなりますが、しかしそれも仕方ないと、じいとばあは一行に向かって声をかけるのです。ところが届けられたのは罰ではなく宝物だったというわけです。そこに昔話らしいユーモアがあり、緊張とカタルシスがあります。

六体の地蔵

さて、お地蔵さんとは何者でしょうか。またなぜ六体あるのでしょうか。

・お地蔵さんとは

仏教では、釈迦入滅後に正しい教えがだんだん衰えて1500年後(2000年後)には「末法の世」となり、世の中は無法がまかり通る暗黒の世界になるとあります。次に釈迦のような救世主(弥勒菩薩)が現れるのは56億7000万年後ですが、それまでの間、自分の身を犠牲にしても人びとを救うのだと決意した仏(菩薩)がお地蔵さん(サンスクリット語:クシティ・ガルパ)でした。

・お地蔵さんが六体のわけ

ではお地蔵さんはなぜ六体あるのでしょう。仏教では人間は輪廻転生、つまり死んだ後、また生まれ変わって新しい生を生きるという考え方があります。そのときに生前の行いにより、次の生では六つの生が待ち受けています。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の六つです。

地獄・餓鬼・畜生を三悪道といい(修羅も含めて四悪道とする場合も)、それぞれ辛い道です。人間道は現在のわれわれの生とされていますが、この上に天があります。お地蔵さんは、自分の身は穢れ(けがれ)ようともそれぞれの世界に住んで、そこにいる人びとを救おうと誓ったので、六体いるのです。

三悪道あるいは四悪道に住まう人を救うというのはわかりますが、人間道やなに不自由のない天道の人びとを救おうというのは一見おかしいように見えます。しかしここに住まう人びとも、生前の行いによっては地獄道や畜生道に堕ちる可能性があります。その意味では、やはり彼らも「苦」の世界の住人であり、救いの対象になるのです。

この「苦」の世界(=六道)を抜けて輪廻転生の循環から脱出することが、いわゆる解脱(げだつ)になります。

自分が傷ついても、見返りがなくても

お地蔵さんに関する言い伝えはたくさんありますが、お地蔵さんの面目躍如といったお話で「積雲寺の地蔵様」というお話をご紹介しましょう。

このお地蔵さんは最上川の川底から発見されました。言い伝えでは、このお地蔵さんは子どもと遊ぶのが大好きだったといいます。子どもと水遊びをしたり、かくれんぼをしたりするのが大好きでした。

子どものことですから、このお地蔵さんを転がしたり石をぶっつけたりする子も出てきます。そのため、お地蔵さんの耳や鼻が欠けてしまいました。おとなは仏罰を恐れて、子どもをひどく叱ったそうです。

ところが仏罰を受けたのはおとなのほうで、叱ったおとなが病気になってしまいました。「子どもと一緒に楽しく遊んでいたのに、その子どもを叱るとはなにごとだ」というわけです。

このお地蔵さんは自分の身がどうなるかということより、子どもがどれだけ楽しくすごせていて、どれだけ幸せなのか、ということの方がたいせつなのです。

・日本人の心の底にあるやさしさ

ここで私は、ラボ版『かさじぞう』のお話を思い出すのです。

じいは、お正月の備えをするために木を売りに行きました。貧しいなか、木を売ってどれだけの餅が買えるかと考えると、これはほんのわずかなぜいたくでしょう。しかしそれさえもあきらめて、お地蔵さんのために笠を買うのです。ばあもその行為を喜んで、私たちはお湯でも飲んで寝ましょうというのです。

じいは自分の身につけていた「もっこふんどし」を一体のお地蔵さんにかぶせてやります。考えてみてください。雪がしんしんと降る中、ふんどしを外すという行為がどれだけ体の芯を冷やすことでしょうか。笠を脱ぐよりも、はるかにこたえるのではないでしょうか? 

そんな自己犠牲を払ってもお地蔵さんに尽くし、お地蔵さんに正月をさせてやろうと思い、お地蔵さんの幸せを願う気持ちは愚かでしょうか。

仏教の考え方に「縁」というものがあります。

すべて、自分一人で成り立っているものはない。人が立っていられるのも大地があるから。大地は動植物を生み育てる、それらが死ねば大地の栄養になる。

自分という人間の性格や美醜は自分一人しかいなければわからないし、意味など無くなる。必ず相手がいるから自分という人間が分かる。日本にしか住んだことがなければ、自分のコミュニティの常識が絶対正しいと思うが、海外に行けばその考えは数ある常識のひとつでしかないことがわかる。

自分が生きていられるのは自分の力ではなく、必ずそれを支えてくれる人がいるから生きていける。自分に反抗する人がいたりさまざまな障害が起ったりするから、それはなぜだろうと考えることができる。

「情けは人のためならず」ということばがあります。ご存じの方も多いと思いますが、「情けは人のためにならないからやめときましょう」というのではなく、「情けは人のためではなく、自分のためだ」ということですね。

人のために尽くすこと。それはめぐりめぐって自分を助けてくれることになります。『かさじぞう』では、それは宝物としてじいとばあに授けられますが、宝物でなくてもほかの者のために尽くすことで、たいせつな何かを得られると思うのです。

数年前、サッカーの試合が終わった後、日本人の観戦客が、誰にもいわれていないのにゴミを掃除して帰り、それを海外メディアが大きく報道して賞賛しました。自分たちにとってはごく当たり前のことなのですが、そういった人を思いやる力があるのが日本人だと思っています。

地蔵タイトル画像の絵本



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