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問題の根本はそこじゃない

授業中にYoutubeを見て遊ぶ。
友だちの写真を勝手に撮って落書き。
授業の様子を動画に収め、
「先生あのときこう言ってましたよね!?」
と詰め寄る。

なんて「困った」話が聞こえてくると、一人一台端末なんて愚策、問題ばかり起きるなら制限しなきゃ的な話になる。
あるいは、教師の指示通りに使わせようと躍起になる。

でも、問題の根本はそこではない。
一人一台の端末が子どもに手渡されるということは、一人一人に委ねられるということだ。
それは、一人一人の人はを管理できないということであり、制御できないということである。
そんなことは一人一台の端末が配られなくったって当たり前のことなのだけど、端末が配られたことによりそれが浮き彫りになった。

だから、子どもを管理、制御できると考えていた教師は、「端末のせいで子どもが好き勝手する」と言う(のだと思う)。
端末を与えさえしなければ、問題は解決すると考えるのだ(と思う)。

でも、問題の根本はそこではない。
端末によって子どもが好き勝手するということは、子ども達が与えられるがまま、考えずに生きているということではないかと思う。
廊下を走るなと言うから走らない、ノートをとりなさいというからとる、今勉強したくないからおしゃべりするのように、言動やマナー、きまりの奥に「なぜ」を問わずに生きているのではないか。

それは、教師が「なぜ」を考えさせず、従わせるための指導をしているからなのではないか。
管理、制御で子どもをコントロールすることが目的になっていて、子どもが自ら考え判断し、自分の責任で行動することをさせていないのではないか。

一人一台のタブレットは、遊び道具として配られているわけではない。
遊びながら学ぶっていう要素はあるにしても、基本的には学習効果を高める道具として配られている(と私は思ってる。あってるか自信ないけど)。そこが子どもと共有できているかということと、効果的に使用するために何をどうするかということを教師も子どもも考えているかということが重要ではないだろうか。

端末に限らず、いつもそういう根本を子どもたちと共有し、子どもたちに考えさせ、行動を委ねていることがないから、制限、管理しなくてはならない事態になるのではないか。
まずは、その位置確認をすることが大事ではないだろうか。
だからこそ、私たちは、何のために教育をするのかという根本に常々立ち止まらなくてはならないのではないと思う。

新しいものが入るということは、それをどう活用させるかではなく、それを自分の教育観と照らし合わせ、自分の方向性や観を確認する、あるいは、再考するよい機会であると捉えたい。
その上で、何をどう活用するか、どうすれば効果的に活用できるかを探ればいいと思っている。
何の考えもなしに時代の「流行り」として取り入れていては、かつて追試授業で大やけどをしたときと同じように、取り返しのつかない大やけどをすることになると私は思う。
一人一台の端末導入の賛否にかかわらず、これは、外せない視点だと思っている。
(私は今さらこんなことに気付いているけど、世に名を馳せるエキスパートはそんなのとうの昔にわかりきっていて、その上で数々の素晴らしいご実践を積んでいると思う。すごい)

とはいえ。
現場ではそれなりに大変なこともあり、きれいごと(だとは思ってないけど)だけでは、どうにもならない!というのも、正直なところかと思う。
だからこそ、時間はかかるし、即効性もないし即時解決にもならないけれど、これを機に自分の教育観、指導観を再考するのは、この先の学校現場には必要なことではないかと考える。
そして、これを機に、根本をじっくり校内で話し合うことも必要なことと思う。


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