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一通の手紙がすべてを決めた。

11/24。私にとって大きな転換の日。
もう18年も前になるのか。昨日のことみたいに覚えてるけど。

2001年の秋。浅草、待乳山での平成中村座。
前年に「法界坊」という古典を串田和美さん演出で復活させ、法界坊の破天荒な役作り、さらに「世界一低い宙乗り」や最後の華やかな立ち回りなどで大きな話題を呼び、その翌年は今度はど古典の「義経千本桜」で、一切奇をてらわずに来た中村屋。
ただし、上演の形を単なる通しにせず、「忠信編(吉野山・川連法眼館)」「知盛編(渡海屋・大物浦)」「権太編(木の実・鮨屋)」と、人を軸にした三部制として、初心者にも入りやすい形を作ってあった。
勘三郎さん(当時、勘九郎)はひと月に忠信・知盛・権太三役ともこなす、大車輪。しかもこの月は国立劇場では成田屋がこちらはスタンダードな通し上演でやはり團十郎さんは三役、巡業では猿翁(当時、猿之助)が権太を演じ、と三座競演でもあった。


この頃はゆるめの中村屋ファンだった私。
試演会は二度とも見ておきながら、中村屋自身の舞台は当初、一日のみ権太編と忠信編の通し観劇だけの予定だった。

楽日も近い24日に見た権太編、忠信編。
何度も見た鮨屋で初めて、弥助(実は重盛の嫡男、惟盛)の役割を強く意識した。勘三郎さんの権太は弥助を初めて見たときに重盛の絵姿でしっかりとその顔を確認し、さらに、落ち入る寸前に弥助に重盛を重ねて拝み、確かに救われて死んでいった。この権太の魂の昇華、この一点に強く心をうたれて泣いた。

感動して手紙を書いた私、仕事もあるというのに休みを取って翌日の知盛編も追加し、中村座へ。お茶子さんにお願いして手紙を託し、知盛編にも感動して帰宅した。

翌日が千穐楽。
国立劇場も同じ楽日、実はかなりのいい席を持っていたのだが、権太編を見たあと、すぐさま知人に譲って、中村座の楽日を前日予約。結局、千穐楽は中村座にいた。

一階竹席の後方。
忠信編、当時の竹席はほんとに環境は劣悪だったので人の頭でほとんど見えなかった、でも、楽しかった。
カーテンコールもあって、今回の演出ではカットされていた化かされもたくさん出てきて。

その後、勘三郎さんが舞台で挨拶し始めたとき、ぎょっとした。

「新之助ファンで、今日、国立を蹴ってこっちに来た、という手紙をくれた人がいる。
試演会のことも褒めてくれていたし、僕の権太を見てすごく細かいところまで気がついてくれていて、嬉しかった」

というような内容で。
誰も私のことだなんてわかりっこないわけだけれど、書いた私にはわかる。
ひとり、人の頭越しに勘三郎さんを見つめながら照れていた。
多分、相当、顔は赤かったと思う。

ここまでされて、一言、御礼を言わずにおられようか。

千穐楽後、たくさんの出待ちの人たちに紛れて、じっと勘三郎さんの帰りを待つ(すでに寒い季節だった。松竹のスタッフさんが、出待ちの人にまで、寒いのに冷たいものでごめんなさい、と言いながらジュースを配ってくれた懐かしい思い出)。

たくさんの人にサインを求められながら近づいてくる勘三郎さんへ、ようやく、声をかけられる位置に来た時、サインをもらおうと平成中村座の枡(まだ景気のいいころで、毎日、振る舞い酒があったのだ)を差し出した私の手は震えていた。

裏でいい?とサインをし始めた勘三郎さんに、勇気を持って声をかける。

「あの」
「はい?」
「えと…Uです、あの、手紙を書いた…」

弾けるように勘三郎さんが顔をあげた。

「えっ!?  あっ、貴女なの! あーっ、そう! ありがとう、ほんとに、いい手紙をありがとう!」

満面の笑み。

「とても感動しました…あの、握手していただいていいですか?」
「何言ってるの、もちろん!もちろん!」

あったかい手だった。

この「握手してもらえますか?」「何言ってるの、もちろん!」のやりとりは、亡くなるまで、ずっと、何度も何度も、何百遍と繰り返したやりとりだ。
どれだけ長くファンをしても、私は必ずしてもらえますか?と聴いたし、勘三郎さんは必ず、もちろん、と笑った。

まだ待ってる方がいたのでこのくらいで早々に遠慮したが、このあとまだ、びっくりするようなことがあった。

三階さんの出待ちをする知人に付き合って、その後もしばらく楽屋口に残り、終わってからも東武線 浅草駅の改札近くでその人と立ち話をしていると、横から「あれっ!?」という声がする。

見ると、そこに勘三郎さんと奥様の好江さんが立ってらした!

びっくりしていると「そこの神谷バーでね、打ち上げだったんだけど、俺、今日、熱があってさ、先に失礼したとこなの」と勘三郎さんの方から教えてくれた。

熱があってあの舞台…!? 驚愕する。

「あのね、この人、ほら、例の手紙書いてくれた、Uさん」

好江さんにそう紹介してくれる。好江さんも話は聞いてらしたらしくニコニコと会釈してくださる。

私はと言えばあまりのことに心臓が高鳴りすぎてロクなことも言えない。
お大事に! また見に行きます! うん、よろしくね、というようなやり取りがあって、お二人をお見送りしたような記憶はある。

これが、全ての、始まりだった。
そこから、10年あまり。ひたすら追いかけ続けた。両親よりも、家族よりも、大切な存在だった。本当に。
大きい人だった。
賛辞も批判も受け止めてくれた。
どんな批判でも、聴いてくれた。
時々はものすごい勢いで反駁されたり、怒られたり、たしなめられたりはした。
が、それを理由に私を拒絶するようなことは一度もなかった。納得のいく批判であれば、改善もしてくれた。
そして、会えばいつも「ねえ、どうだった?」と聴いてくれた。

思えば思っただけ、思いを返してくれる人だった、と思う。


私のつたない手紙が勘三郎さんに何がしかの心の動きを与えたということがどれほど嬉しかったか。
これが今の私の、全ての原点になっている。

言葉にして伝えること。

言葉にしなくてもわかるはず、というのはある意味で甘えだし、傲慢だ、と思う。そんなに人の心はわかりやすいものではない。察したり、発されてない言葉が見えたりなんてことは絶対にありえない。

心血を注いで作られた全ての創作物に対して、心が動いたなら、よかった、楽しかった、の一言でも伝えるべきだと…それがある意味で受け手が演じ手に返すことのできる唯一のギフトだと…そう信じている。信じさせてくれるのは勘三郎さんとの12年間という時間だ。

勘三郎さんはもういなくなって、手紙というツールで伝えることはできなくなったけれど、その代わりこうしたnote.やブログという手段を使って、その後に出逢った様々なエンターテイメントへの感想を伝えることはできている。

伝えることの大切さを、この日書いた一通の手紙から私は知ったのだと思う。

これからも私は言葉を紡ぎ続けるだろう。どんなに拙くても。

(ヘッダーの写真は勘三郎さんへ送った手紙のストック。これで1/3です…笑)

いただいたサポートは私の血肉になっていずれ言葉になって還っていくと思います(いや特に「活動費」とかないから)。でも、そのサポート分をあなたの血肉にしてもらった方がきっといいと思うのでどうぞお気遣いなく。